「Lust For Life」
【あらすじ】
貧困からなんとなくヤクザになった挨拶にやたらこだわる木崎。
恩人が殺された理由を探っていくと同じ組の裏切りと気付く。
SMの女王様・男の娘・義足の元ヤクザと共に、貧困ビジネスや保育園事業給付金の不正受給を働こうとする裏切り者達を追い詰めるために大掛かりなコンゲーム(信用詐欺)を仕掛ける。
第一章
父親は俺が小学四年の時に死んだ。自殺だった。東京の町工場の集まる場所で、腕のいい板金工場として経営は順調だった。だが運悪く連帯保証人になった。ちゃんとしたところから借りたてるから大丈夫、そう言っていたはずなのに。債権はどう考えても普通じゃないところに流れていた。いや、そもそもちゃんとしてなかったのかもしれない。子どもの俺には分からないことだった。取り立てが毎日やって来た。暴力は受けてない。けれど物は壊されたし、怒鳴り散らされた。仕事はなくなり、経営も傾いた。父は結果として死ぬしかなかったんだ。借金は保険金と家と工場を売り払ったカネで返済された。
母と俺は築何年か分からないドアがまともに閉まらないようなアパートに引っ越した。しばらくは静かに暮らしていたが、そのうちまた何故か取り立ての男達がやって来るようになった。どうやらカネが無くなった母に生活費が必要でしょうと甘い言葉を囁いて、再びカネを貸しつけたらしい。風呂にも入れないまま電気を消して時間が来るまで居ないふりをした。
そのうち男が一人家の中に入り込んできた。借金取りのうちの一人だった。挨拶には五月蝿い男だったが、俺は一度言われたきりでそれ以上言われなかった。父が挨拶は大事だと教えていてくれたからだ。おかげで八つ当たりをされずに済んだ。アパートは小さな台所と六畳の部屋だ。そこは一応襖で仕切られていた。ある夜トイレに起きるといつもは開いてるはずの襖が閉まっていた。隣に母も居なかった。襖を細く開けてみると、台所のシンクの前で二人が身を重ねていた。
「あの子が、起きちゃうから」そう息も絶え絶えに母が言った。言葉とは裏腹に汗ばみながら幸せそうな顔をしていた。厳つい男に伸ばされた手は男の背中にきつく絡んでいた。
それからすぐに母は十万円と『この子をよろしくお願いします』というメモを残して消えた。メモには名前と電話番号が書いてあった。俺は隣に住む親切な爺さんに電話を借りてそこにかけた。そしてすぐに来てくれた。父の弟だった。奥さんと一緒にやって来た叔父はメモを見て困惑していた。だから俺は正座して三つ指をついて「よろしくお願いします」と頭を下げた。挨拶は大事だ。
俺は横浜の叔父の家にお世話になることになった。その家には同い年の女子がいた。明らかに嫌そうだった。「くさいから寄らないで」そう言って学校には先に行ってしまった。完全に無視されたが、それ以上のことはやられなかった。それだけで儲けもんだ。叔父の家では納戸として使っていた狭い部屋を与えられた。部屋を貰えるなんてありがたい話だ。六年生になる頃、一人暮らししていた爺ちゃんが一緒に住むことになった。どうやら転んで介護が必要となったらしい。叔父も叔母も働いていた。自動的に俺が面倒を見ることになった。学校から帰って来て、すぐに爺ちゃんの部屋に行く。爺ちゃんは昼食を食べてないことが多かった。だから俺が用意してやる。爺ちゃんは少し惚けてきていて、よく父の名前で呼んだ。俺は別に訂正しなかった。名前なんてなんだっていい。
困ったのは中学に入ってからだ。横浜の中学は昼飯は弁当だ。カネはない。用意してくれとはとても言えなかった。そこでみんなの弁当を作るという提案をしてみた。叔父も叔母も弁当持参だった。弁当作りは叔母だけがやっていたので、それは喜んで受け入れられた。最初は週に二回から。そのうち週五で俺が作ることになった。それが好評だったのか夕食の準備も俺の担当になった。弁当と夕食を作るカネを渡されるようになった。だから俺はそれをやりくりして余ったお金を幾らかちょろまかして余った分を叔母に返していた。そのうち「余っても返さねくていい」と言われるようになった。つまり俺は中学に入ってから介護と家事をこなすのに忙しかったというわけだ。〈青春〉なんて言葉があるがあれは余裕がある奴の台詞だ。生きていくことに困ってない奴の娯楽みたいなもんだ。だからといって俺が不幸かと言われればそうは思わない。少なくとも住むところがあって飯が食える。料理のレパートリーや介護のやり方に困ったら学校の図書室に行けばいい。
そしてとうとう高校進学の時期になった。介護と家事をやっている俺にカネを出してもいいと思ったんだろう、叔父は「工業高校と商業高校どっちがいい?」と聞いてきた。叔父は父のこともあって工業高校を勧めてきたが、俺は商業高校を選んだ。カネがなくて困ってたんだ。カネに関する仕事をしたかった。叔父は俺が商業高校を選んでも嫌な顔をしなかった。ここの家の娘は県内でも優秀な高校に進学した。それが叔母の自慢だった。
高校に入って急に背が伸びると、その娘が何故か急に俺を意識し出した。ある日叔母に「私のこと変な目で見てる」と言っているのを偶然聞いてしまった。確かに爺ちゃんの面倒も見なければ、挨拶すらしないっていうのはおかしいだろという意味では変な目で見てるが。そういう意味ではないんだろう。俺は次の日学校に行って腐女子の方々にいらない本を譲ってくれるようにお願いした。そうしたらタダでくれた。いい人達だ。俺はそれを手に入れると叔父と叔母に話があると深刻な顔で言った。そして腐女子の方々に貰った薄い本を二人の目の前に置いた。
「俺は実は……こういうのに興味があるんです」そう言った。二人はかなり驚いていた。だが意外にもすんなり受け入れられた。叔父はやはり叔母から話を聞いていたらしく、あからさまにホッとしていた。自分の娘と間違いがあったらどうしようと心配していたんだろう。そんなことは間違いなくないのだが。叔母はどうやら往年の腐女子だったらしく、すぐに受け入れてくれた。もちろん自分の子どもではないからってのもあるだろう。とにかく娘からの身に覚えのないクレームは回避できた。その後に娘は俺に「ホモだったんだ?」って半笑いで言ってきた。ホモかどうかは分からないけれど、お前を選ぶことはまずないから安心しろと言いたかった。だがそれは我慢して「ああ」と返事しておいた。そもそも介護と家事で頭がいっぱいなんだ、恋愛する時間なんてどこにあるんだ?
高校卒業と同時に就職した。従業員が二十人ほどの鋳型工場の経理だ。それで俺は叔父の家を出て、給料で暮らしていけそうなアパートに住むことにした。「いつでも帰ってきていいのよ」なんて言われたけど、爺ちゃんが亡くなったいま帰る理由なんてない。俺は二度とこの家の敷居を跨ぐことはないだろうと思った。
仕事は順調だった。学校で教わることと実践は全然違う。俺はまだ“経理見習い“といったところだろう。先輩は四十代の男の人だった。仕事はきっちり教えてくれたから、きっといい人なんだろう。工場で働くみんなは仲が良かったが、経理ともなるとそんなに交流はない。羨ましくないことはなかったが、そもそも学生時代に他人とそんなに交流がなかったので、どう混ざればいいか分からなかった。けれど時間がなんとかしてくれるだろうということしか思い浮かばなかった。そんな調子で三年目を迎えようとしていた。
その日は朝から騒がしかった。「不渡りを二回出した」そんな会話が聞こえた。だがいつまで経っても先輩も社長も姿を現さなかった。どうやらこの会社の経営状態はよくなく、帳簿は改ざんされていた。なけなしのカネを持って二人は逃げたらしい。一緒に逃げたのか、別々に逃げたのかそれは分からなかった。とにかくこの会社は潰れるってことだけが分かった。
経理見習い程度の仕事しか出来ない俺に正社員の口はなかった。それで仕方なくコンビニで働き始めた。深夜のシフトだったせいかそこそこのカネは貰えた。駅からは遠くて築年数も古いけど家賃を安くしておいてよかったと思った。深夜の仕事はそんなに大変ではなかった。人が切れる時間がある。その時にレジ以外の仕事をやればよかった。それに来るお客さんは常連さんがほとんどだった。その常連の一人が石川だった。
いつもミネラルウォーターとサラダチキンを買っていく。肌も灼けていて鍛えられた身体をしていた。だから最初はスポーツジムのトレーナーかと思っていた。ウェーブのかかった少し長めの髪をしていたけれど、そんなトレーナーもいるんだろうなくらいにしか思っていなかった。いつも日付を過ぎた頃にやって来た。年齢が近いせいもあって、少しずつ話すようになった。最初は寒いですねとか暑いですねとかそんな他愛もないことだ。それからポツポツと話題が広がっていった。最初に話かけてきたのは石川からだったかもしれない。
そのうちにコンビニのシフトの時間が短くなってきた。昼間にシフトに入っていた女性が深夜の0時からという中途半端な時間に入ってきた。俺は朝までの予定が一時で上がることになってしまった。それはだいぶ死活問題だ。どうしてそんな時間に入ることになったか不思議だった。オーナー兼店長は「彼女はシングルマザーだからお金が必要なんだよね」と言っていたが、それは表向きの理由でどうやら店長も店にやってきて二人で会う口実だったようだ。いわゆる不倫ってヤツだな。そうなればいくら俺が生活がかかってると言っても聞き入れてはもらえないだろう。コンビニならもう少し駅の近くに行けば何軒かある。店を代わるべきなんだろうな。
「どうしたの? 元気ないじゃん」
石川はふいに声をかけてきた。誰にも相談出来なかった俺はつい愚痴と共に現状を話した。せっかく仲良くなった常連さんと離れるのは少し寂しい気もしたんだと思う。ふうん、と石川は言った。そしてもうすぐ終わるなら外で待ってるけどと言った。俺はなんとなく、うんと答えてしまった。
仕事を終えて外に出ると本当に石川は待っていた。
「俺ん家近くなんだけど寄ってかない?」そう言った。人の家に遊びに行くというのは小学生以来だった。
石川の家はそう遠くない古いマンションだった。
「エレベーターついてるだけマシだけどね」そう言って笑った。五階建ての四階だった。扉はひと昔前のものだ。鍵を回して中に入った。
「お邪魔します」と声をかけて部屋の中へ進む。短い廊下に中扉、そして広めのリビングにキッチンだ。ただ不思議だったのは何故か部屋の真ん中には大きな作業台みたいな机があったことだ。部屋というより工房といった感じだ。
その辺に座ってと言われ、適当な椅子に座る。椅子もどっちかというと作業をする時に座るようなものだった。石川は何もないけどと言うと缶ビールを俺に渡した。自分はコンビニで買った水を飲んでいた。俺はありがたく頂いた。
「カネ、稼ぎたいと思ってる?」
いきなり不思議な質問をしてきた。俺はまあと答えた。やっぱり生活出来ないのは困る。
「──だったら俺らの組に入らない?」
組? ああ、その焼けっぷりは建築関係だったのか。いつもTシャツにスウェットだったから気がつかなかった。
「手先が器用そうに見えたんだけど?」
「ああ、まあ」父の板金工場で遊んでいたせいか手先はわりと器用な方だと思う。
「だったらより稼げるよ。カネがあって困るってことはないっしょ?」
「そりゃ、生活に困らないほうがいい」
「だったらおいでよ」
「結構キツい?」肉体労働にそんなふうに聞くのも変だけど。
「そうでもないんじゃない? 俺らの組は緩いほうだから」
建築系なら給料もいいんだろう。それに知ってる人がいてくれたら心強い。
「なら面接だけでも受けてみようかな。履歴書っている?」
「いらない。俺の口ききだから」
なるほど。派遣なのかもしれないな。とにかく話は聞いてみる価値はありそうだ。石川は明日一緒に行かないかと言ってくれた。早いほうがいい。
連れて行かれたのは昔ながらの一戸建ての家だった。この辺にしては珍しくちょっとした庭がついた二階建ての家だ。何故か木製の板に〈紅玉組〉と書かれていた。林檎の品種か? 石川は横開きの玄関を開け、そのまま入って行った。廊下は埃っぽく少しざらついていた。入ってすぐの部屋の扉をノックした。中から返事があり、石川は扉を開けると入って行き俺もそれに続いた。ソファセットに木製のローテーブル。立派な事務机。その側には神棚があった。そして『質実剛健』と書かれた書が飾られていた。出迎えてくれたのは白髪混じりの恰幅いい七十歳くらいの着物の爺さんだった。今どき着物の男の人なんて正月でもあまり見かけない。珍しいなと思った。俺たちはソファに座るように言われた。ソファは少しくたびれていて、座り癖のせいなのか変なところがへこんでいた。爺さんはどこからか朱塗りの盆を持って戻ってきた。
「親父、これって正月用の屠蘇セットじゃないすか」石川は眉を顰めてそう言った。
「めでたい日なんだからいいじゃないか」
確かにおめでたい感じはする。屠蘇台《とそだい》も銚子も盃台《さかずきだい》も盃も美しい朱塗りだった。
「酒は飲めるのか? 今どきの若え者は酒が飲めないっていうからな。まあ、形だけでもいいから舐めるくらいでいい」そう言って爺さんは俺に盃を手に取るように言い、透明の液体を盃に注いだ。俺は盃を持ったまま固まった。どうすればいいんだ? 爺さんはワクワク顔で俺を見ている。人をもてなすのが好きな年寄りは少なくない。酒とは言っているが、なんの液体かは分からない。だがここで断るという選択肢はない。俺は一気に飲み干した。よかった、本当にただの日本酒だ。
「よし! これで親子盃が済んだな。あ、盃は持って帰るなよ? 数がねえんだ」
いや、他人の盃を持って帰るという癖は俺にはない。盃を盃台に返すと爺さんは残りの盃に酒を注いで神棚に置いて手を打った。何かをブツブツ言っている。どうも信心深い爺さんのようだった。俺が石川をみると石川は呆れたように爺さんを見ていた。石川は信心深くないのかもしれない。
「それで、えーと……」爺さんは振り返ってそう聞いた。
「木崎です。木崎|碧《あおい》。あおいは“へき“っていうか、王に白、下に石って書きます」
「おうおう〈金碧輝煌《きんぺききこう》〉の“へき“か。美しく光り輝く。いい名前じゃないか」
「ありがとうございます」少し大袈裟だとは思うが、褒められて嫌な気分はしない。
「じゃあ今日からよろしくな」爺さんはそう言った。合格ってことでいいんだろうか? 俺は「ありがとうございます」と言って深く頭を下げた。
それからすぐに部屋を出た。石川は「案内する」と言って一旦外へ出た。庭は外から見ると広くは感じられなかったが、けっこう奥に続いていた。そしてそこには小屋が建っていた。なるほど、あそこが実際の仕事関係の部屋になるわけだな。きっといま通された部屋は社長室なんだろう。
小屋は見た目は綺麗だった。普通に部屋を増築したと言われたら、そうだろうなと思うくらいに造りはしっかりしていた。石川はドアを開けた。小さな玄関があった。そこには靴が脱ぎ捨てられていて、お世辞にも綺麗とは言えなかった。俺は「こんにちは、お邪魔します」と声をかけ靴を脱いだ。左側には小さな扉が見えた。右側が部屋のようだった。石川が中に入ると「お疲れさまです」と声がかかった。
「なンだ、お前ら暇してたのかよ」
中には男が五人居た。二人は入ってすぐの簡易ダイニングテーブルみたいなところに座っていた。残りの三人はカーペットの敷いてある床に座っていたようだ。石川の姿を見るとみんな直立不動していた。テーブルに座っている二人は残りの三人よりも明らかに年上だ。というか床に座っていた三人は俺よりも年下じゃないだろうか。幼い顔つきをしていたから、十代であることは間違いない。
「いえ、あの」テーブルに座っていたはずの男が言った。スキンヘッドで大柄な男だ。だがぷよぷよの脂肪が多めでどこかの漫画の魔人に似ていた。
「まあいい。今日から組に入った木崎だ。俺の下につく」
俺はすぐに「よろしくお願いします」と頭を下げた。何故か若者組からおーという感嘆の声が漏れた。
「それって……」もう一人のテーブル組の男が何か言いかけた。背は俺より低いがわりとガッチリした身体をしていた。出っ歯のせいか口が開いたままだった。
「俺の仕事を手伝ってもらう。だから指示は俺が出す」
石川がそう言うと、出っ歯は明らかに苦い顔をした。
「それよりコイツらヒマさせておくなよ」石川は若者組を親指で指し、舌打ちをした。その瞬間何故か場が凍った。
「す、すんません」
「俺は今からコイツらに仕事させっから、木崎に説明しとけ」そう言って石川は踵を返して歩き出した。若者組は慌てて石川を追って行った。部屋には魔人と出っ歯と俺が残された。
「説明ってなんだよ?」魔人は出っ歯に言った。
「分かんねえっす」
「あの……木崎碧です。よろしくお願いします」俺は頭を下げた。二人は「お、おう」と答えた。
「春日だ」魔人が言った。「俺は井上」出っ歯が続いた。そこで会話は止まった。
「──あの、もしよかったら説明前に掃除させてもらえませんか?」
俺がそう言うと二人は目を丸くしたが、すぐに「じゃ、じゃあ頼むわ」と春日が言った。
下っ端の仕事はだいたいが掃除と決まっている。というかこの部屋は汚すぎる。ずっと気になっていた。まず玄関が汚い。それから廊下というか床が汚い。さっきの床も気にはなったがその比ではない。しかしそれよりも酷いのが簡易シンクだ。どうやら蛇口を捻れば水は出るらしい程度のものだったが、そこにはカップラーメンの食べ残しが積まれていた。シンクの下には一応ゴミ袋があったが全く分別がされてない。シンクの隣には簡易冷蔵庫が備え付けられており、その上には電子レンジが乗っていた。ガスはどうやら引かれていないようで、ガス台が置かれるべきところにはカセットコンロが置いてあった。
そして問題なのは食べかけのお菓子の袋が開かれたまま床に置いてあることだった。床を歩ければお菓子のカスのせいでカーペットの上がザラザラしている。俺の勘だがここには絶対に俺の嫌いなアイツがいる。Gのつくアイツだ。
「掃除用具を探したいんですけど、シンクの下とか引き出しとか開けてもいいっすか?」
「お、おう」俺がそう聞くと井上はそう答えた。俺が何か言う度に動揺するのは何故なんだろうな。
シンクに備え付けの引き出しからはゴミ袋が見つかった。シンクしたの収納庫にはそれなりの道具が揃っていた。台所用洗剤、スポンジ、ゴム手袋、そして布巾が何枚か。封すら切られてなかった。俺はゴム手袋を嵌めるとシンクに溜っているカップラーメンの容器をザッと水で流しながら容器ごとに分別してゴミ袋に入れていった。何度か小蝿と遭遇する。言っておくが俺は小蝿も嫌いだ。
シンクを掃除し終わると今度は床掃除だ。掃除機はあるだろうか? と聞いてみたけど二人とも首を捻っていた。仕方ない。俺は雑巾代わりの布巾を硬く絞るとカーペットの上を吹き始めた。これはお菓子屑を掃除するのが目的だから一定方向に動かして、カーペットの中に入り込んだ屑を掻き出すように拭く。だいたい寝ながらお菓子を食うのはどうかと思うぞ。どうしてもって言うなら新聞紙くらい敷け。二人はテーブルで煙草を吸っていたけれど、居心地が悪かったのか部屋の外へ出て行った。その隙に小さな窓を開ける。だいたい換気もせずに煙草を吸うのはいかがなものか。床掃除を終えて二人が戻ってくる前に布巾でテーブルを拭く。それから気になっていた電子レンジも開けてみる。やっぱり油がギトギトじゃないか! 布巾を濡らして電子レンジに入れ三十秒ほど加熱する。どうやらそれでは足りなかったようだ。もう三十秒ほど追加する。それからざっと拭けばそれなりに綺麗にはなる。冷蔵庫はどうだ? 冷蔵庫はそこまで汚くなっていなかった。多少拭くくらいでいいだろう。俺は部屋を見渡す。うん。さっきよりはだいぶ綺麗になっている。
「お、おう。綺麗になってるじゃね、ねえか」春日が恐る恐る入って来た。
「あるものでしか掃除できなかったんでこんなもんですが」
「いやあ、十分じゃね?」井上がニヤニヤしながら俺を見た。
「あの、向かいの小さい扉ってトイレですか?」思ったことを聞いてみる。井上は「お、おう」と答えた。どうしていちいちつっかえるんだろうか。
「だったらトイレも掃除します。この調子だと掃除してないですよね?」
「い、いや、若頭の連れてきたお人にそこまでさせていいのかっていうか」春日が言い淀む。カシラ? 石川はそう呼ばれているのだろうか? よく分からないがもしかしたら偉いんだろうか。
「石川は偉いのかもしれないけど、俺は入ったばかりだしトイレ掃除くらい普通じゃないすか?」
「石川っ!」二人は声を揃えて言った。なんかまずかっただろうか。
「あの……俺もカシラって呼んだほうがいいですか?」
いや、まあ、と二人は言い淀んだ。よく分からないな。とにかく俺はトイレ掃除をするぞ。あんな密閉空間でGに遭遇した日にゃ出るもんも引っ込んじまう。二人の脇を通り過ぎて小さな扉を開く。開いて唖然とした。酷い悪臭ときっと一度も掃除されたことのないトイレがそこにあった。悲鳴をあげなかった俺を誰か褒めて欲しい。俺はGの影に怯えながらトイレ掃除に取り掛かった。だめだ。先輩達には申し訳ないが、任せてたら大惨事になりそうだ。俺が掃除すべきだろう。トイレ掃除の途中で石川が戻ってきた。
「俺の下につく奴にトイレ掃除をやらせてるなんて、テメエらも偉くなったなあ」石川がそう言うと二人が震え上がっていた。
「トイレ掃除は俺がやるって言ったんだ。新人なんだからトイレ掃除くらい普通だろ?」
「いい心がけじゃん」石川は満足そうに頷いた。「じゃあそれ終わったらちょっと出るぞ」そう言って椅子に座って煙草を燻らせた。なんだか嗅いだことのない臭いの煙草だった。春日と井上はその脇でじっと立ったままだった。
トイレ掃除が終わるとすぐに昨日訪れてマンションに向かった。
「実はここ、作業場でさ。自宅じゃねえんだわ」到着するとすぐに石川は言った。それは薄々分かってたことだったから。それに昨日は目隠しの布がかかっていて見えなかったデスクトップのパソコンをはじめとしたあまり見たことのない形の機械の数々が今日は姿をあらわしていた。
「で、木崎はあっちじゃなくてこの部屋で仕事を頼みてえんだわ」
この部屋? 建築現場じゃないのか? もしかしてなんか違う作業なのか?
石川は作業机の側のキャビネットの引き出しを開けて、何かの紙を取り出した。それは〈食品衛生責任者の受講終了証〉だった。そしてもう一枚は同じ色の紙だった。
「これと同じものを作って欲しいんだよね。俺も器用じゃないわけじゃないけど……なんつーか嫌いなんだ、こういう細かい作業」石川はそう言って頭を掻いた。
この証書を作る仕事なのか? 石川は作業机の上のパソコンを起動させる。いろんな名称の資格のフォルダが並んでいた。
「フォルダに現在使われてる証書と同じものが入ってる。それに名前と番号入れてこの紙に印刷して」
そう言って今度はリストを俺に渡した。
「それを印刷したらあっちの機械でパウチ加工して。それから」今度は下の棚からブルーの塩ビ素材のようなものを取り出した。
「神奈川の〈食品衛生責任者手帳〉。これも表紙印刷して。あと」
まだあるのかよ? 俺はメモを取りたい衝動に駆られる。
「で、これがプレートの見本。食品衛生プレートってフォルダのところをそのまま印刷してくれればいい。印刷するプレートはこの引き出しに入ってるから。
石川は見本を作業机の上に放った。
「なんか聞きてえこととかあるか?」石川はさっさと説明するとそう言った。俺は「いや」とだけ答えた。なにか聞いたら今までの説明を忘れてしまいそうだ。
「じゃあ俺ちょっと出てくるわ。一応使うものとかは引き出しに入ってるから適当に探して使っといて」そう言ってだるそうに髪をかき上げるとさっさと出て行ってしまった。いや、本当は作業じゃなくて聞きたいことが山のようにある。だが予定があるなら仕方ない。俺は引き出しを開けて紙とペンを探し出した。石川が言ったことを急いで書きつけた。それから溜め息なのか深呼吸なのか大きく息を吐いた。よし! とりあえず取り掛からねば。
始めてみるとそんなに大変な作業ではなかった。ただ確かに手間のかかるな。いちいち入力しなきゃならないし、それをパウチ加工しなきゃならない。パウチ作業は何故か高校にあって使ったことのある機械だから助かった。
次に塩ビ素材の印刷も恐る恐る取り掛かる。どうやら同じプリンターで出来るらしい。柔らかい素材だから気を遣ったがそれでもなんとか印刷することは出来た。
それが終わって俺は悩んだ。問題はプレートだ。恐らくプリンターの隣にあるこの機械で出来るんだろう。だが使い方が分からない。仕方なく全ての引き出しを漁る。奥のほうに押し込んであった説明書らしきものを見つける。機械系はそんなに暗いほうじゃない。取説さえあれば何とかなるだろう。俺はそれから何時間か機械と格闘していた。
業務用の機械はコツさえ掴んでしまえば、そんなに難しいものではなかった。プレート用の印刷機もそれ用の機械みたいで思ったより早く印刷できた。見本と比べてみる。うん、これなら合格だろう。しかし手軽にできたとはいえ、こういうのを作るならもっと大きな機械でやったほうが効率が良いのではないだろうか? 今は大きくて場所をとったり、高額な機械がなくても手軽にいろんなものが作れるって聞いてはいたけど。ここもそうなのだろうか?
どうやらうたた寝していたらしい。カシャンと扉が閉まる音で目が覚めた。
「お! もしかして終わってる? すげえな。さすが俺が見込んだだけのことはある」
石川は開口一番そう言った。そして持っていたコンビニのビニール袋からコーヒーを取り出して投げて寄越した。俺は頭を下げてありがたく頂戴することにした。石川は出来上がったパウチの証書を見て「おー」と感嘆の声を上げ、印刷された塩ビ素材を手に取って「うわ! マジ綺麗じゃん」と驚いて、最後プレートの出来を見て「凄えな」と呟いた。そこまで喜ばれるとなんだかくすぐったい。
「俺さ、あんまり説明してなかっただろ? だから電話くると思ってたんだけど、よく考えたら番号教えてねえし知らねえなって。だからパウチ加工くらいしかやってねえだろうなって思っててよ」
ああ、説明不足の自覚はあったんだ? というか確かに俺も番号知らないな。これは聞いておくべきなんだろうと思う。
「俺、LINEとかやらねえから電話番号でいいか? 繋がんない時は番号にメッセージ送ってくれよ」
そう言われて俺は頷いた。大丈夫だ、俺もLINEはやってない。そもそも連絡する相手がいない。そして俺は石川と番号を交換した。
「でも思ってた以上だったなあ。いや手先は器用そうな気はしてたのよ、けどこんなに最初から出来がいいとか。俺期待しちゃうなあ」石川はプレートを手に取って大事そうに眺めながら言った。それから俺を見てにこりと笑った。
なんというか石川って褒め上手だよな。そう言われたら俺だって嬉しい。
「なあ、あそこのコンビニで働いてるってことはこの辺に住んでる?」気がついたら石川は机にもたれて目の前に居た。
「ああ。でもちょっと離れるかも久保山のほうだから。あっちのほうが安いし」
「だったらここに住んじゃえば? そうしたら移動しなくて楽じゃん」
はい? いきなり何を言い出すのかと思えば。俺の住んでるところは安いアパートだし、ここはいくら古いっていったってマンションだ。
「だってここって家賃高いだろ? コンビニの給料だって下がるのに。この仕事だって幾ら貰えるのか聞いてないし」
「え? まだコンビニ続ける気でいるの?」石川は驚いたように言った。それから「そっか、説明してなかったか」と言って苦笑した。
「いま月に幾ら貰ってんの? ついでに家賃は幾ら?」
「多くて十五万くらいかな。シフト減らされたら十万ちょっとになるかもしれない。家賃は五万」
「ずいぶん安いとこ住んでンなあ。ここは八万五千円なんだ。うーん、じゃあ試用期間ってことで二十万。慣れてきたら三十万でどう? それでコンビニ辞めちゃえよ」
二十万? マジで? 最初の会社でもそんな手取りじゃなかった。額面はそんなかんじだったかもしれないけど。
「ホントに?」俺は恐る恐る石川に確認する。
「おう。なんなら契約書でも交わすか?」石川はパソコンの契約書ってフォルダを開いて適当なものを選んで数字や期限を修正して、プリントアウトした。そして「ちゃんと読んで署名してくれよ」と二枚渡してきた。丹念に読む。こういうのはちゃんとしておかないと後で揉めるからな。金額も合ってるし、一応試用期間は三ヶ月って書いてあった。
「試用期間中は家賃の差額は俺が払う。それだって俺はかなり安くなるわけだから得だろ?」
そう言われればそうかもしれない。石川だって旨味がなければここに住めなんて言わないだろう。俺は契約書二枚にサインした。明日にでもコンビニには辞めるって言おう。
帰り際、俺は気になったことを聞いてみる。
「なあ、俺も石川のこと“カシラ“って呼んだほうがいいのか?」
水を飲んでいた石川は吹き出しそうになって咽せていた。
「ええっと、ここにいる時は別に名前で構わねえけど……アイツらの前ではそう呼んでくれるとありがたいっていうか」
俺は分かったと返事をした。よく考えたらカシラって変な呼び名だな。焼き鳥みたいだ。
**
次に頼まれたのは〈宅地建物取引士〉の合格証書だった。それと〈宅地建物取引士〉証いわゆる〈取引士証〉ってヤツだ。合格証書はそんなに細かくは気にしなくていいけど、〈取引士証〉は精度を上げてくれと言われた。
基本的に石川が仕事を請け負ってくる。それを俺が作る。そんなかんじだった。だからどんな取引先なのかとか幾らで請け負ってるとかは全く知らなかった。俺は依頼どおりに作るだけだった。石川はもの凄く褒め上手だった。今まで誉められたことなんてない。俺は取引先なんてどうでもよくなっていた。目の前の石川に褒められればそれだけで舞い上がるほど嬉しかった。
そしてコンビニを辞める頃、二十万円は本当に渡された。そして本格的にアパートを引き払って、マンションに移り住んで来た。
石川は関内に住んでると言っていた。あんなところに住むところがあるんだと驚いた。繁華街のイメージしかない。ただ石川はここにいる時は酒は基本的には飲まないが、飲み屋には頻繁に行くらしい。それも仕事だからって言っていた。だからここにいる時くらいは酒断ちしてるらしい。「肝臓がどうのってのは心配してないけど、ずっと飲みっぱなしで腹が出てきたら困るだろ」って言ってた。どうやら見た目にはこだわるらしい。
石川はよくここにスーツで訪れた。Tシャツにスウェットしか見てなかったから最初は驚いた。格好良かった。俺が見ただけで上等なスーツだって分かった。「碧も一着くらいスーツ買えよ」と言われた。なんなら買ってやろうかって。けれどそれは丁重にお断りした。俺が石川と同じスーツなんて着たら、間違いなく着られてしまう。ただ唯一持っていたスーツはくたびれていて肘がテカッているので新しく買ってもいいのかもしれない。
スーツはあの小屋に行く時は着て行くよう石川に言われた。とりあえず週に一回は顔を出す。本当は掃除するからジャージで行きたいくらいだが、石川は毎回社長室に俺を連れて行く。だから仕方ない。
春日さんと井上さんは俺のことを「木崎さん」と呼んだ。そんなのおかしいだろ、俺は新入りなんだぞ? だから「木崎でいいです」と言った。二人とも「いやいやいや」と最初は断ったけれど、お願いしたら最終的には木崎呼びになった。石川はそれを聞いて眉を顰めた。二人はやっぱりビビっていた。俺がちゃんと説明したら納得してたけど。それから何故か石川は碧呼びに変わった。よく分からないが石川は自分が特別な存在というのをアピールしたいらしい。十分特別な存在であるんだけどな。
小屋に行くと石川は若者組三人を連れてすぐに何処かへ行ってしまう。おかげで三人の名前が覚えられていない。
俺は着々と掃除用具を持ち込んだ。だから今では最初よりだいぶ綺麗だ。まずゴミ箱を設置した。ちゃんとデカデカと〈燃えるゴミ〉〈プラ〉〈ペットと缶〉と書いておいた。最初はプラとペットがごっちゃになってたみたいだが、「プラって書いてあるのはプラに捨ててね」と書いて貼っておいたら守ってくれるようになった。それから床でお菓子を食べる用に木製のトレイを用意した。テーブルも椅子も足りないこの部屋では、やはり床に座るしかない。もう少し寒くなったら円形の炬燵テーブルでも買うのもいいかもしれない。それまではトレイで我慢してもらうおう。春日さんも井上さんも掃除を手伝ってくれることはなかったが、掃除の時以外でも窓を細く開けて煙草を吸ってくれることが多くなったようだ。いい心がけだ。
「木崎は若頭となにやってンだよ?」
トイレ掃除をしていたら井上さんが不意に聞いてきた。俺はトイレブラシを動かす手を止めてふと考えた。なにって……いろんな資格証作りだが、説明して通じるだろうか?
「えっと……事務仕事っすかねえ。パソコンに向かってることが多いかも」
まずは軽めに説明しておこうか。どんなものか聞かれたら詳しく説明すればいい。だが予想に反して井上さんはすぐに「凄えな」と言ってきた。
「パソコンとか出来るンだ?」
「まあ。そんな難しいことはやってませんよ?」
「俺らはそんなの全然分からねえから。ねえ兄貴」井上さんが春日さんにそう言ったら、春日さんも頷いていた。
「──あの、俺も春日さんじゃなくて“兄貴“って呼んだほうがいいですか?」
「それはやめて!」春日さんの声は裏返っていた。どうしてそんなに慌ててるんだ?
「若頭の仕事ってやっぱキツいか?」井上さんはワクワク顔で聞いてきた。キツい? どうだろうな。
「俺はそうは思わないけど、機械に慣れてないとちょっと困るかもしれないっす」印刷用の機械やパウチ加工の機械が初めてなら戸惑うだろうから。
「凄えな、木崎」春日さんは納得したように頷きながら言った。
「やっぱ俺らじゃ歯が立たねえや」井上さんが頭を掻いた。
「いや、コツがあるだけで覚えれば誰でも出来ますって」
「謙遜するなよ」春日さんが俺の背中をバシバシと叩いた。
うん、まあ、確かに。掃除がここまで不得意ならパウチ加工も面倒がるのかもしれないもんな。俺は「ありがとうございます」と答えてトイレ掃除に戻ることにした。
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あれから二年近く経った。鈍い俺でも自分が一体何者なのか今では理解している。石川は〈紅玉組〉という組の若頭だった。俺は構成員としてスカウトされたのだ。〈紅玉組〉は古くからある組のようだったが、今では神奈川の大きな勢力の四次団体だったか五次団体だったかにしてもらったらしい。それも石川の功績らしいが。
〈紅玉組〉には昔から親父の右腕がいたらしいが、怪我をしてヤクザを引退したらしい。その人の下についていたのが春日さんと井上さんだ。だが石川のほうが能力があったため二人の上になったそうだ。石川は自分の直の下が欲しかったし、春日さんと井上さんはどう石川に接したらいいか分からなかった。それで俺がいい緩衝材だったらしい。
若者組三人は中学卒業したばかりだったというから驚きだ。いわゆる〈部屋住み〉ってヤツらしいのだが、そんなことやってるところは今ではほとんどないと聞いた。けれど三人は帰るところがなかった。いや、正確には実家はある。だがとても帰れる家じゃなかったってだけだ。家にいたら暴力を受ける、食いもんがない、借金取りが来る。それなら組の事務所に寝泊まりしたほうがマシだった。ヤクザの組事務所のほうが居心地がいいってどんなところに暮らしてたんだろうな。それで親父と春日さんが住んでもいいって許可したらしい。それまでは井上さんが住んでたようだったから、ここではわりと普通なのかもしれない。
俺がやっていた仕事は許可証を作る仕事じゃなくて、偽許可証を作る仕事だった。流石に健康保険証を作るってところで気がついた。役所がこんな小規模なところに頼むわけがない。だからといって今さらどうこう出来るわけじゃない。俺は作業場に住んでいたし、カネもきちんと貰えてる。偽でもなんでも需要があるってことは作る側も必要ってことだ。必要なものなら俺がやめても他のところに回るだけだ。だったら俺でいいじゃないか。
一度石川が「奢ってくれるっていうから飯食いに行こうぜ」と言った。誰が? と思ったが石川はその時はまだ何も教えてはくれなかった。わざわざ中華街に出掛けて行った。賑やかな大通りから裏路地に入った店に入った。裏路地のほうが美味しい店が多いって聞いたけどどうなんだろうな。石川は知っている店みたいで、女将と思われる人が店に入るとすぐに二階へ続く階段を見ながら顎でしゃくった。二階へ行けってことなんだろう。一階にはお客さんがまばらだった。これから混み出すんだろうか。
二階に上がると爺さんが一人で拉麺を啜っていた。俺たちは少し離れた席に座った。
「なに食いたい?」石川はメニュー表を俺に渡すとそう言った。石川はもう決まっているようだった。俺は漢字が並ぶメニュー表をじっと見た。
「五目あんかけ拉麺か生碼麺かな」
「なんでそれ? ここはフカヒレの姿煮拉麺一択だろ?」
「そんな食べたことないヤツなんて怖くて頼めないよ」
「奢りだぞ? フカヒレにしとけ」
「うーん。やっぱり五目あんかけにする。それから餃子」
俺がそういうと石川は呆れたように俺を見た。そして「餃子でも炒飯でもなんでも食え」と言った。
注文したものはすぐにやってきた。石川はフカヒレを「美味い美味い」と言って食べていたけど。俺はそれより野菜も魚介も肉も入ってる五目のほうがお得な気がするけど。俺たちは他に餃子と海老炒飯を注文した。全て美味かった。中華街にはいろんな店があるっていうけど、ここの店はアタリだと思う。
俺たちが食べ終わると二階には誰もいなかった。爺さんは帰ったらしい、気がつかなかったけど。そう言えば奢りっていうから誰か一緒なのかと思ったけど、誰も来なかったな。石川とそのまま階下に降りる。レジには女将が立っていた。石川はその前に立った。
「お代は貰ってるよ。これからもよろしくって伝えてくれって」女将は愛想なくそう言った。石川は礼を言うと店を出た。
石川は機嫌よく歩きだした。誰に奢って貰ったんだろうか?
「合格だってさ」石川は振り返って急にそう言った。合格?
「二階に爺さんが一人座ってたろ? あの人は中国人街の顔役なんだ。俺に仕事を回してくれるのも殆どあの人。実際に作ってる奴の顔を見たいって言うからさ、碧を連れて来たってわけ」
うん? どういうことだ?
「碧がどんな奴か知りたかったらしい。けっこう慎重なんだ。まあそりゃそうだよな、日本にやって来る中国人は大抵困ったらあの人頼っていくし」
「ああ、中華街の偉い人なんだ?」
俺がそう言うと石川は首を振った。
「だから違うって。中華街じゃなくて中国人街。中国人がみんな中華街で働いてるわけじゃないだろ?」
そりゃそうだ。だとしたらとても偉い人なんじゃなかろうか。
「そう。あの人めちゃ凄い人だよ。困ってあの人のところに相談に行ったら、電話一本で解決できたって話はいくつも聞いたからな。だから碧には言わなかった。緊張するだろ?」
まあ、確かに。それだと料理の味は分からなかったかもしれない。
「顔を見たかっただけみたいだから。それで納得したんだから安いモンだろ?」
それだけ言うと石川はまた上機嫌で歩き出した。というか石川はそんな凄い人とどこで知り合ってるんだろうな。
俺のスーツの肘がとうとう擦り切れて穴が開いた。スーツを買おうか悩んだが踏ん切りがつかない。週一で事務所に行くだけだし、それだってもうスーツで行く必要はないんじゃないだろうか。少し寒くなってきたから俺は上着と兼ねてメルカリでアウトドア用のゴアテックのマウンテンパーカーを買った。保温性は抜群だし、防水透湿性に優れている。しかもかなり安く買えた。俺はワイシャツとスラックスの上にマウンテンパーカーを羽織ることにした。石川はそれを見て爆笑してた。
「それはねえわ。だからスーツ買ってやるって」そう言われたけど、やっぱり断った。ヤクザと分かってからは逆にどんなスーツを買えばいいか分からなくなったからだ。石川はお洒落なイタリアンマフィアか流行りのものなのかみたいな微妙なラインで格好いい。春日さんはいかにもってダブルのスーツだし、井上さんは殆ど見たことないけどそれでも何かいかにもって感じだった。石川ほどお洒落になれる気もしないし、いかにもってのも恥ずかしい。俺はヤクザにもなりきれない。だったらもうスーツなんて着なくていいんじゃないかって考えたんだ。親父は「なんだ、そのジャンパーは?」って呆れてたけど。ただのジャンパーじゃないんだって。ゴアテックだぞ。
春日さんと井上さんは俺の姿を見て驚いていた。石川が席を外したら春日さんが「おい、それはねえんじゃねえの」って言ってきた。井上さんは「いかにもなサラリーマンみてえ」と腹を抱えて笑っていた。だからゴアテックなんだって。俺が「有名なアウトドアブランドのいいヤツなんですってば」と反論すると、春日さんは「教員みてえだぞ」って言ってきた。別にカタギに見える分には問題ないからいいや。
生活はだいぶ余裕が出てきた。やはり安定的に多めの金額を貰えるというのは心が安定する。だからといって明日は分からない不安定な稼業だ。貯金は必須だろう。基本的には無駄遣いはしない。酒も飲まなきゃいられないわけじゃないし、作業場にずっとこもっているから基本自炊だ。外食は石川としか行かないし、そうすると必ず奢ってくれた。
そこで俺は今さらだけど〈青春〉を取り戻したいなと思った。青春といえば恋愛。つまり俺だってそういうことがしたいって余裕が出てきた。
石川にそう話すと何故か風俗を紹介された。
「キャバクラなんかに行ったら碧みたいな免疫のないヤツはケツの毛まで毟り取られるから」と真顔で行くのを止められた。そこで紹介されたのが風俗だった。
石川の紹介のおかげか店員はもの凄く丁寧だった。
「好みの女の子は?」そう聞かれた。好み? 「挨拶ができて介護とか嫌がらない子」と答えたら店員の笑顔が張り付いていた。何か変なことを言っただろうか。
結局、紹介された子を案内して貰ったけれど……正直、よく分からなかった。何というか、それじゃない感というか。
三回ほど通って店員のオススメの女の子に入ってみたけれど、どうもピンとこなかった。
そういえばもしかしたら俺はホモかもしれないと思い始めた。嘘から出たまことってこともある。店員に相談すると真顔で頷かれた。そして「普段は紹介したりしないんすけど」と言いながら、男性を派遣してくれる風俗の事務所に連れて行ってくれた。そこの店の店員もいい人でいろいろ聞いてくれた。「じゃあまずはタチでいってみますか」って言ってくれたけど意味は分からなかったけどな。結局試してみたけどどうもピンとこなかった。男が駄目ってわけじゃなかったけど結局なんか痛そうな気がして最後までは出来なかった。痛そうなのは可哀想で無理だ。そう伝えたら「だったらもしかしたらコッチかも」と言って今度は別な店に案内してくれた。とりあえず風俗の店員は親切なんだなと思った。
連れて来られた店は今までのフランクな店員とは違って、少しかしこまった感じの店員だった。
「今回はSコースでよろしいですか?」
S? 小さいって意味だろうか? そこはこだわってはいないけど。でも店員は「石川様のご友人ということですので特別に当店ナンバーワンをご用意させていただきました」って恭しく言うもんだから、思わず頷いてしまった。石川はこういうところまで顔がきくんだなって驚いた。
店員は店の奥の部屋に案内してくれた。そこにはVIPルームって書かれていた。部屋に通された。なんだか暗くて物がたくさんある部屋だ。俺はソファに座って待っていた。
ヒールの音がした。部屋の奥から人影が現れた。
「あら。今夜は可愛い豚さんなのね」
そう言ったのは黒い皮の衣装に身を包んだエラい美人の女性だった。ブルネットのウェーブの長い艶やかな髪を揺らしてこちらに歩いてくる。色っぽい眼差しはリタ・ヘイワースに似てる。リタ・ヘイワースは最近アマプラで観た映画に出てきたから知ってただけだ。
俺のところまでやって来ると手に持っていた何かの柄で俺の顎をクイと持ち上げた。
「はじめまして。木崎です」
「豚は人の言葉なんて喋らないでしょう? 豚なら豚らしくなさい」
なんだ? 豚になる設定なのか? よく分からないけど豚の真似をすればいいのか? どうでもいいがこっちが挨拶してるのに挨拶を返さないってのはよくないな。
「どうしたの子豚ちゃん」顎の柄を高く持ち上げて顔を近づけてきてわざわざそう言った。
「oink oink」
「うん?」
「oink oink oink oink」
「なにそれ!」女性は大きな声を上げた。
「なにって豚の鳴声じゃないですか」俺は不満気に言った。
「子豚ちゃんって言ったのはそっちでしょ? だから子豚の真似をしてみたんですけど」俺は有名なあの子豚の映画が大好きだ。何回観ても泣ける。
彼女は顎を持ち上げてる柄を下げた。
「──四つん這いになって豚になれる?」何故か不安気にそう言った。
俺は頷くと四つん這いになった。膝をつくのはどうなんだろうか? べイヴはそんな歩き方してたか?
「ごめん、なに考えてるの?」
「べイヴは膝ついたりしてなかったなって」
女性は頭を抱えた。そして「一旦ソファに座りましょうか」と言った。
彼女は俺と向かい合わせになるように置かれた一人掛けの高級そうなソファに足を組んで座った。長い脚は魅惑的だった。
「──石川さんの友人って聞いてたから」
「うん。まあ、それは間違ってないけど」
「最高のプレイをよろしくねってわざわざ呼ばれたんだけど」
豚の真似が? 俺は首を傾げた。
「まさかと思うけどM男じゃない?」
「いや。まあ、そのM男ってヤツなのかどうかも分からないんだ。だから自分がしっくりくるのを知りたくて、尋ねてまわったらここに来た」
「うん?」
俺はこれまでの経緯をザッと話した。なんだか経験豊富そうだし、この人なら何か答えを知ってるんじゃないだろうか。彼女は俺の話を黙って聞いていた。
「──相手が痛いのは嫌か。じゃあ痛いのが気持ちいいっていっても?」
「頭では分かってても痛いことはしたくないし、たぶん出来ない」
「あなた、ヤクザじゃないの?」
「ヤクザ、なんじゃないかな。でも喧嘩っていうか人を殴ったことはない」
彼女は溜め息をついた。
「痛いことされるのは?」
「さあ。されたことないから」
「殴られたことくらいあるでしょ?」
「まあ。別になにも」
そう答えると彼女はジッと俺を見つめた。
「──さっき〈青春〉って言ったわよね? それって胸キュンしたいってことじゃないの?」
胸キュン? なんだ、それは。
「相手に会っただけで胸がキュンってするの」胸がキュン……心臓に悪そうな感じだな。
「好みのタイプは?」
また同じことを聞かれた。それは重要なことなんだろうか。
「うーん、前も聞かれたんだけどそれってよく分からないんだよな」
「好きな子とかいたでしょ? 初恋は?」
そんなものはいたためしがない。というかそもそもそんな時間はなかった。
「初恋……もしかしたら幼稚園の時? 綺麗な形の泥団子をくれたからいい子だなって」
「それでなんでSMクラブに来たのよ!?」
それから時間まで彼女といろいろ話した。彼女の名は麗華女王様というらしい。麗華女王様と呼んだほうがいいかと尋ねたら、麗華でいいと言われた。M男じゃない客に強要する気はないって言った。
麗華さんはここで出来るプレイを説明してくれた。このプレイルームは縛って吊るすことまで出来るらしい。「縛られたい?」って聞かれたけど、それは丁重にお断りした。縄抜けの術は会得していない。
ほとんどのものは興味はなかったけど、一つだけやってみたいものがあった。両手を拘束されて鞭で打たれるというものだ。ここは梁に鎖が繋がっていて本格的だ。映画で見たやつのようだ。俺はワクワクしながら皮の拘束バンドを手首に嵌めた。
「なにしてんの?」
「こないだ映画で観て。やってみたいなって」
そう答えると麗華さんは呆れたように俺を見た。
「……仕方ないわね、やってあげるわ。まず上脱いで」
「脱ぐのか?」
「服が破れていいのなら」
それは困る。俺は慌ててマウンテンパーカーとワイシャツを脱いだ。
「意外と鍛えてるじゃないの。もっとヒョロガリかと思った」
部屋から出ない仕事だからこのままだと腹が出てくるかもと思って筋トレを始めた。たぶん石川の影響だと思う。石川は俺とは比べ物にならないくらい鍛えている。胸板はかなり厚いし、腹筋だって綺麗に割れている。俺はそこまで綺麗に割れてない。うっすら割れてるのが分かる程度だ。
俺は片手に皮の拘束バンドを嵌めた。そこまですると麗華さんがもう片方の手首を掴んで引いた。これで俺は大の字に拘束されてることになる。
麗華さんは俺の背中側に立ち、鞭の柄で背中をすうっと撫でた。
「いい? 我慢なさいね」そっと耳元で囁かれる。
風を切った音がして俺の背中に鞭が振り下ろされた……振り下ろされたか? 麗華さんは二、三度背中を打った。
「ねえ、麗華さん」俺は頑張って首を回して振り返った。麗華さんは鞭を振るうのを止め、首を傾げた。
「なに? もういいの?」
「そうじゃなくて、今って鞭使ってる?」
麗華さんは手元に視線を落とした。
「使ってるわよ、バラ鞭だけど」そう言って鞭を掲げた。
「なんか違う」
そう言うと麗華さんは綺麗な顔を歪めた。
「私の一本鞭を受けたいって?」一本鞭? ああ、そういえば映画のはそんなかんじだったか。俺は頷いた。
欲しがりねえ、麗華さんはそう言って壁に飾ってある鞭を手に取った。そして手の中でピシリと音を立てた。
「泣いたって止めないわよ。覚悟なさい」
そう言って鞭を振り下ろした。ヒュンと風を切る音がした。さっきとは違う。もっと鋭く切り裂くような音だ。それと同時に背中に痛みが走った。音がしたのかもしれないが、それよりも先に痛みを感じた。麗華さんは容赦なく何度も鞭を振り下ろした。背中は痛みと共に熱を感じた。流石に「ううっ」と声が漏れた。だが止めてくれる気配はなかった。背中がどんどん熱くなる。けれどそれは不快なものではなかった。
俺はしばらくそのまま打たれたけれど、そんなに長い時間じゃなかったと思う。ふいに打たれるのが止んだ。麗華さんはヒールの音を鳴らしながら優雅に俺の目の前に佇んだ。顔を上げた。唇を噛んでいたんだろう、少し血の味がした。
「よく頑張ったわね」麗華さんはそう言ってそっと俺の頭を撫でると、拘束具を外してくれた。俺は情けないことに膝から崩れ落ちた。
なんだか達成感に満ち溢れていた。脚がガクガクしてまだ立てそうになかったが、それでも満ち足りた気がした。
「どう?」
「──背中が熱い。血行がよくなったかんじ?」
俺が薄ら笑いでそう答えると、麗華さんは眉を顰めた。
「馬鹿ねえ」
「でもなんか気持ちいい」
そう。麗華さんはそっけなくそう言うと俺に手を貸してソファに座らせた。背中はじんじんと痛んだ。麗華さんは奥に行くとペットボトルの水を持って戻ってきた。それを俺に手渡した。
「ありがとう」身体が熱くなってるからちょうど良かった。
「ミミズ腫れにはなってるけど、血は出てないから」そう言って俺にワイシャツを投げて寄越した。
「全く。Mでもない人に鞭を振るうなんて初めての経験だわ」
「そっか」
「私の一本鞭を受けられるなんて滅多にないことなんだから! 超ご褒美よ」
「そうなんだ? それはありがたいことなんだな」そう答えると麗華さんは呆れたように俺を見て長い溜め息をついた。
「痛みのわりに跡が残らないの。まあ自慢ね」
「それって難しいの?」
「下手な人がやると痛みがあれば傷がついたり、逆に芯を外して全く痛くなかったりするわね」
「練習したんだろ?」
「まあね」
「じゃあもう職人じゃん」
俺がそう言うと麗華さんは目を丸くして俺を見つめた。
「匠の技なんだろ?」
「ま、まあ、そうね」麗華さんは分かりやすく照れた。
そろそろ時間だった。俺はゆっくりとワイシャツに袖を通した。それからマウンテンパーカーを羽織った。背中だけがもの凄く熱い。それもまた心地良かった。
「──ねえ、麗華さん」麗華さんは俺を上目遣いで見上げた。睫毛が揺れてそれもまた色っぽかった。
「また来ていいかな?」
「いいけど。どうして?」
「楽しかった。胸キュンは分からないけど、スッキリしたから」
何故かそれを聞いて麗華さんはもの凄くしょっぱい顔をした。たぶんそれじゃない……とかブツブツ呟いていたけど。
俺が部屋を出ようとするとふいに麗華さんに腕を取られた。
「木崎さん、だったわね。困ったらウロウロしないでここにいらっしゃい。免疫がなさすぎて心配だから」
石川と同じことを言われた。きっとこの人もいい人なんだろう。
「木崎碧です。また来ます」
そう言って店をあとにした。背中はまだじんわりと痛んだ。けどなんだかすごく満足していた。
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俺はその後、最低でも月に一度は麗華さんのところに通った。別に普通に話して帰ってくることもあった。鞭を打ってもらうと肩こりがスッキリすると言ったらまたもの凄くしょっぱい顔をされた。確かに麗華さんの一本鞭は有名みたいで、店ですれ違いざまに「麗華女王様の一本鞭を受けられるなんて……」とどこぞの親父に嘆かれたことがあった。そんなにありがたいことなのか。石川にそれを伝えたら爆笑してた。
ある時、麗華さんがこのあと時間はあるかと俺に聞いてきた。予定はないがどうしたのだろう。
「いつもあなたの我が儘ばかりきいてるんだから、たまには私の我が儘をききなさいよ」と言われた。麗華さんはもうすぐ仕事が終わるらしい。俺は店の外でのんびり待つことにした。
「おまたせ」
やって来た麗華さんは豹柄のショートジャケットに胸元の大きく開いたニット、太腿にピッタリと貼り付くようなスキニーのデニムにヒールの高いピンヒールで現れた。ついでにセレブみたいなサングラスをかけていた。どう考えても目立つ。
「行ってみたい店があるから付き合いなさい」
そう言ってさっさと歩き出した。ちょうどディナーの時間だ。もしかしてめちゃくちゃ高い店に連れて行かれるんだろうか? 給料が出たばかりだったので財布には少し入っていることを思い出し、ホッと胸を撫で下ろした。
グズグズしていると麗華さんは立ち止まって振り返った。俺は慌てて走り出した。
「──え? ここ?」
麗華さんが立ち止まったのは牛丼のチェーン店だった。
「牛丼食べたいなってずっと思ってたから。一人じゃ入れないでしょ?」
確かに。麗華さんが食べてたら目立ってしょうがないだろう。
「前に一人で来たら変なオヤジに絡まれて大変だったの」麗華さんはそうポツリと呟いた。俺は麗華さんの腕を取って店の中に入る。
「並でいいの? 大盛?」券売機の前でそう聞いた。
「……アタマの大盛のお新香みそ汁セット。半熟卵もつけて」麗華さんは腕を組んでそう言った。虚勢を張ってるみたいでちょっと可愛い。
俺は大盛にして同じセットにする。カウンターの最奥の席に座る。サラリーマンふうの男性が何人かいたが、みんな麗華さんをチラチラ見ている。中にはカネのない男に無理やり連れて来られちゃって可哀想みたいな目でみる奴もいた。いや、来たいって言ったのは麗華さんだからな。券売機のチケットを店員に渡すと、すぐに注文の品がやって来た。麗華さんはサングラスを頭の上に乗せた。すると小さく「おー」とため息が漏れるのが聞こえた。確かに美人だからな。
麗華さんは『牛丼なんて興味ないです』みたいな感じで食べ始めた。いや、口角が上がってるから。どうやら嬉しくて堪らないみたいだった。
食べ終えるとすぐに店を出た。後ろから「もっといい店に連れってってやりゃいいのに」って聞こえた。麗華さんは少し歩くと俺を横目で眺めた。
「なに?」
「ヤクザなのにあんなこと言われて怒らないんだ?」
「まあ。知らない人が見たらそう思うのが普通だろ」
「馬鹿にされたのに。ヤクザってもっと面子にこだわるのかと思ってた」
いやヤクザヤクザって言うけど、そもそも成りたくてなったわけじゃないから。たまたまそうなっただけで。
「喧嘩にならなくてよかった」
麗華さんはそう言うと足早に歩き出す。そして大通りに着くとタクシーを止めた。
「──今日は楽しかったわ。じゃあまた」そう言って手を振って去って行った。
麗華さんが楽しくて、俺が役に立ったのならそれでいいや。
俺は踵を返して、駅へ向かった。
それからほどなくして石川が銃で撃たれて死んだ。
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