第二章

 石川の死は春日さんからの電話で知った。俺は頭が真っ白になってしまってなんて答えたのかすら覚えていなかった。春日さんは「おい、大丈夫か?」って言ってくれたけど、それにだって答えられなかった。
 とりあえず事務所に来いって言われて、慌てて向かった。もしかしたら入院して生死の境を彷徨っているのかもしれない。それを春日さんが言い間違えたんだろうとずっと考えながら事務所に向かった。
 親父の家には電気が点いていなかった。俺は奥の小屋に向かった。小屋では井上さんが肩を落として煙草を吸っていた。
「……木崎」井上さんは俺の姿を見ると弱々しくそう言った。そのひと言で俺は春日さんの言葉が間違っていないことを知った。
「春日さんから電話もらって。春日さんは!?」
「警察に呼ばれてる。親父は本部に呼ばれて行った」警察? 本部? 呆然と立ちすくんでいると井上さんは俺に座るように行った。俺が座ると、若者組のひとりがお茶を持ってやって来た。三人はいつものように床に座っていたが、寝そべったりしていなかった。三人だって不安だろうに。
「銃で撃たれたってことで警察が調べるってことになってよ。どこのどいつが撃ったか知らねえけど、場合によっちゃあコッチもやらなきゃならねえから」
 井上さんはいつもの間の抜けた顔はしていなかった。どこかピリついていて、目だけギラついていた。
「親父が本部ってのはそのせいですか?」
「まあ。木崎はこの組が合併するって話は聞いてたか?」
 井上さんは急に話を変えた。なんのことだろう。合併? そんなことはひと言も聞いてない。
「ウチの組は人数も少ないし、シノギも多くない。親父も高齢だ。それで若頭が〈鳴門組〉と一緒になったらどうだって話を進めてた。こっちは世話になるほうだから、だいぶいろいろ譲ったって聞いてる」
 それって合併というより吸収じゃなかろうか?
「その話もあって本部に呼ばれてる」井上さんは長い息を吐いた。
「もし己龍会の奴らがやったってことになると厄介だけど」
 〈己龍会〉とはウチの本部とは敵対する勢力だ。どうしてここでその名前が出てくるんだろうか。
「石川って〈己龍会〉の誰かと揉めてたんですか?」
「〈己龍会〉の二次団体の〈極翠会〉って知ってるか? 〈己龍会〉の総括委員長が組長やってる団体だ。そこの若頭の梨田《なしだ》の情婦にちょっかいをかけたって噂があってな」
「〈極翠会〉の梨田、ですか?」聞いたこともない名前だった。そもそも石川が他人のオンナにちょっかいをかけるなんて想像できなかった。
「俺も分かんねえんだ。〈鳴門組〉の奴らから聞いただけだから」井上さんは頭を掻いた。
 ああそれで〈鳴門組〉が出てきたわけか。
 俺は違和感を感じた。石川はモテるし雑食だ。それに『誰か一人と付き合うとか今は考えられねえな』というのが口癖だった。そんな石川がリスクを犯してまで他人のオンナに手を出すだろうか? しかも石川は俺と違ってそういう序列には気を遣うタイプだ。
「それだと警察もうるせえだろうし。兄貴が遺体の確認って名目で呼ばれてる」
 それは確かに厄介だ。こんな小さい組なら解散させられてしまうかもしれない。石川の死でさえ受け止められないのに、全部がなくなってしまうとか俺には想像できなかった。
「まあ、親父か兄貴が帰ってくるまでは何もできねえよ」
 井上さんはそう言って煙草の煙をゆっくりと吐いた。

 夜になって親父から連絡が入った。本部との話し合いが終わり、これから警察に向かうらしい。帰ってくるまで待ってろと何度も念を押された。井上さんは若者組に煙草を買ってくるように言い、俺はコーヒーを頼んだ。三人が出て行ったのを確認して俺は井上さんに聞いた。
「〈鳴門組〉と一緒になるっていつ決まったんですか? というか〈鳴門組〉とか俺は知らないですけど」
「若頭から聞いてねえの?」井上さんは驚いたようにそう言った。俺は頷いた。
「ここの若頭だった清川さんが怪我して引退するって時に本部から言われたんだ、解散しろって。人数もシノギも足りねえって。そんで解散してこっちで引き取るからってな。そうしたら若頭が人数もシノギも何とかするからって言って。それで連れて来たのが木崎、てめえだ」
 なるほど。俺は人数合わせで誘われたってわけか。
「シノギもきっちり毎月何とかしてくるからよ。それで本部がだったら三次団体の〈鳴門組〉と一緒になれって。〈鳴門組〉は人数もシノギもウチよりちょっと多いくらいだな。勢いはあるけど歴史が浅い。だったらちょうどいいんじゃねえかって」
「〈鳴門組〉ってどんなとこなんですか?」
「〈鳴門組〉の上は〈門田組〉ってとこよ。その〈門田組〉の若頭が〈鳴門組〉の組長だ。組長の若生《わこう》さんがあっちのほうの出身だから鳴門ってつけたって聞いたな」
 ああ、鳴門海峡の辺りってことか。
「その若生さんってのがやたら勢いがあってなあ。結構ヤバい橋を渡りたがるって聞いてたから俺は乗り気じゃなかったんだけど、若頭はやたら話を進めたがってたけどな」
「合併の時にかなり譲ったって言ってましたけど?」
「ああ。親父はどのみち引退になるだろう。そんで組長は〈鳴門組〉の若生。若頭も向こうの若頭な。ウチの若頭は若頭補佐になるって」
 なるほど。格が下がるってことか。けれど本部に引き受けられたら若頭補佐どころかただのヒラになるだろう。石川はそれよりもマシだと判断したんじゃなかろうか。
「井上さんはどっちがいいと思ったんですか」
 俺がそう言うと井上さんは最後の煙草に火をつけてゆっくり吸い込んだ。
「──俺らはどこだって一緒よ。それに引退したって仕事もねえしな。コレを続けていくしかねえのよ」
 煙を吐き出しながらそう呟いた。

 深夜になろうとする頃、親父と春日さんが戻って来た。二人とも顔色も悪くぐったりしていた。俺たちは事務所に来るように言われた。
 親父はすぐに俺たちにソファに座るように言った。どうやら大切な話があるらしい。親父の隣に春日さんが座り、その向かいに井上さんと俺が座った。若者組はそばに立っていた。
「──石川を撃った奴を警察は特定した」親父は開口一番そう言った。
 特定? 捕まえたわけじゃないのか?
「どこのどいつっすか!」井上さんがギラついた目で噛み付くように言った。
「落ち着け」春日さんが井上さんを宥めた。
「──石川はヤクの取引きをたまたま目撃してしまった。それでブラジル人の売人に撃たれたってとこだ。売人からヤクを買った奴は警察に捕まった。売人は逃走中だ。まあブラジルに逃げられちゃあどうにもならねえな、ブラジルとは犯罪人引渡し条約は締結されてねえから」
 はあ? と井上さんは大きな声を上げた。
「どういうことっすか!」そして親父に詰め寄った。
「──井上。誰に口きいてんだ、テメエは。だからいま言っただろうが、撃たれた“ってとこ“だって。そう決まったんだから仕方ねえだろ」
 決まった? 誰が決めたんだ?
「本部と警察とはそういうことになってる。仮に相手が〈己龍会〉だとしたら報復しなきゃならねえ。警察も本部もそれは望んじゃいねえってことだ」
 親父が俺の顔を見ながらそう言った。それはこれ以上石川を殺った奴を調べるなってことだ。
「撃った奴はまだ捕まっちゃいねえが、一応の犯人は確保した」
 一応の犯人ってなんだ? そいつは何の罪になるんだ? 違法薬物を買ったってだけの罪だよな?
 どういうことなのか俺にはさっぱり理解できなかった。ただヤクザになるってことはこういうことなんだって思った。面子や上に逆らわないってことに囚われるってこういうことなんだと初めて理解した。
 だからってそれが許せるかっていわれれば、俺には到底許せる話じゃなかった。
「──木崎」
 名前を呼ばれて顔を上げれば、春日さんが俺をじっと見ていた。
「堪えろよ」そう言い切った。
 俺は「はい」と返事をするしかなかった。ここで暴れたところで何になる? 親父や春日さんを困らせるだけだ。
 石川は司法解剖の後に直接葬儀場に運ばれることになっているらしい。そしてすぐに通夜と告別式が行われる。
「木崎。喪服は持ってるのか?」親父は俺に言った。
「いえ」
「だったら明日には用意しとけ。明日に執り行うことはないが、それ以降はいつになるか分からねえ。連絡が来たらすぐに向かうから」
 俺は「はい」と小さく返事するしかなかった。

 その後に事務所を出たのは覚えてる。けどどうやって家に帰ってきたのかは覚えてなかった。気がついたら部屋の中にいた。石川がここに誘ってくれた。そうじゃなかったら俺はまだあの安アパートで生活に追われながら苦しんでいた。確かに俺をヤクザに誘ったのは石川だ。だからなんだ? 俺はいま生活に困ってないし、結構楽しく暮らせている。それは石川のおかげだ。その石川が銃で撃たれて殺された。犯人はでっち上げのブラジル人。そもそもそんな奴は存在するのか?
 ──俺は石川の死んだ理由さえ知ることは出来ないのか?
 そう思ったら身体の力が抜けて座り込んでしまった。俺は石川に何も返せてない。
 涙もでなかった。

 **

 次の日、何故か早い時間に井上さんから電話があった。「今すぐ横浜駅まで出てこい」って言われてすぐに切られた。
 俺は仕方なく重い身体を引き摺って横浜駅まで出て行く。改札を抜けてどこで待ち合わせだったか聞いてなかったのを思い出して井上さんに電話した。どうやら高島屋前の喫煙所にいるらしい。
 鶏小屋から俺を見つけるとすぐに出て来た。若者組三人も一緒だった。
「スーツ買いに行くぞ」そう言って歩き出した。どうやらビブレの近くに紳士服の専門店があるらしい。
「コイツらのモンも買わねえとならねえだろ?」井上さんは親指で三人を指した。確かに。俺だけじゃなかったか。
「だから親父からカネ預かってきてっから。テメエの分と一緒にな」
「いや、そんな、俺は」
 そう言った俺を井上さんは横目で睨んだ。
「黙ってありがたく受け取っておけ。そんな顔色して。どうせ電話しなかったら家から出なかっただろうが」
 そんなに酷い顔色だろうか。そういえば鏡も見てないことを思い出す。
「すいません」俺は井上さんに頭を下げた。
「──慣れてねえんだ、仕方ねえ」そう呟くように言ってさっさと歩き出してしまった。
 井上さんはこんなふうな思いを何度もしてきたってことだろうか? 井上さんは何も言わなかったけれど、丸まった背中はそれを雄弁に語っているように見えた。

 夜になると春日さんから電話があった。石川の葬儀の日取りが決まったらしい。
『明日が通夜、明後日が告別式だから』
「ずいぶん急ですね」
『それ以降だと友引に引っかかるんだ。親父はそういうの気にするからな。それから──』
 春日さんは言葉を切った。
『喪主は親父。テメエはその隣に立ってろ。他のことは俺らがやる。あと〈鳴門組〉から助っ人が何人か来るから』
「〈鳴門組〉っすか」
『まあ。これから一緒になるわけだし……手伝いに来るって言われたら無碍にはできねえだろ。だから木崎は親父のそばにいて親父の指示を聞いてくれ』
 俺は返事をして電話を切った。きっと井上さんが何か言ってくれたんだろうなと思った。「アイツは役に立ちませんよ」とか。だろうな。今の俺がまともに仕事が出来るとは思えない。
 悲しいは悲しい。けどどうしても納得できないんだ。石川の死をうやむやのまま終わらせるなんて俺には出来ない。黙ってこのままやり過ごすのが一番いいって頭では分かってる。今までだってそうしてきた。けど、心が納得しないんだ。俺は受け入れられない思いを抱えて混乱していた。

 石川の通夜には人が入れ替わり立ち替わりいろんな人が訪れた。とは言ってもみんな同業者みたいな人達だったけれど。小さくてもさすが老舗といったところか。親父の前に座って口々に「今回は運が悪かった」とか「たまたま巻き込まれて」とか心にもないことを言っていた。俺はその度にそんなの嘘っぱちだと叫びそうになった。テメエらが勝手に決めたことじゃねえかって言ってやりたくなった。けれどこんな小さな組でもわざわざ顔を立てて訪れてくれたことを親父は感謝してるみたいだった。誰も来てくれなかったらそれはそれできっと寂しいものだったのかもしれない。石川の功績が大きかったことを表してるって言われればそうなんだろうけど。
 俺は息苦しくなって外へ出た。外の空気を吸ったところで何も変わらない。ふと葬儀場の外にスーツの人影が見えた。黒いスーツではない。確かに通夜は喪服じゃなくても構わない。けれど訪れた人はみんな黒いスーツだった。外の奴らはこちらをチラチラと伺っている。
「──警察だろ。何かしでかさないように見張ってる」井上さんだった。
「煙草は吸わねえのか?」そう言って井上さんは上着のポケットから煙草を咥え、俺に勧めてきた。
「吸ったことないから」
 そうか、井上さんはそう言って俺の隣で煙草に火を点けた。暗闇に白い煙が立ちのぼった。こんな時くらい煙草の一つくらい吸えたらいいのにと思いながらぼんやり眺める。
「──木崎は頑張ってると思うわ。けどもう少し顔に出さねえようにしろ」
「出てました?」
「刺し違えても構わねえみたいな顔してンぞ」
 それは気がつかなかった。俺は慌てて自分の顔に触れた。
「まあ、それぐれえは大事だったんだろ?」井上さんはポケットから携帯灰皿を出して煙草を押し付けた。そしてそろそろ戻ると言い残して去って行った。
 大事、か。そうか石川は俺にとって大事な人だったんだ。そう思ったら胸の奥が締め付けられるような気がした。大事な人が死んだってのに俺はまた何もできないのか? 今はもう何もできなかった子どもじゃないんだ。
 そう考えながら外でウロウロするスーツの男達を睨みつけた。

 俺たちはそのまま葬儀場に泊まることになった。もうほとんど帰ったようで、人影はまばらだった。「何か食えよ」とすれ違った春日さんに言われたけれど食欲なんてなかった。そういえばいつから食べてないんだろう。
 部屋に戻ると井上さんと若者組が遅い夕食をとっていた。俺も呼ばれて席につく。巻き物を出されてひと口食べたがそれ以上は食べることは出来なかった。俺は飲み物を取って来ると立ち上がった。
 ひと口無理やり食べたのが良くなかったのかもしれない。急に気持ち悪くなってトイレに駆け込んだ。だが吐こうにも出てくるものはない。仕方なく便座に座り込む。吐き気がおさまるまでは座っておこう。俺は便座に座り、頭を抱えてそっと吐き気がおさまるのを待った。
 ふいにドアが開く音がした。どうやら誰か入って来たようだった。
「面倒なことが一つなくなってよかったなあ」
「ああ。アレが上に来るとかあり得ねえからな」
 アレ? アレってなんだ?
 ここのトイレは外側に開くタイプだから普段からドアは閉まっている。だから入ってるか入ってないかは分かりづらいのだ。俺は息を殺した。
「そもそも若頭も親父も鬱陶しかったんじゃないのか?」
「だろうよ。若頭なんて連絡きた時に笑顔だったもんなあ」
「殺《や》らせたんじゃねえのか?」
「さあな。けどウチの親父ならやりかねねえな」
 そう言って二人は笑った。名前は出てない。けど間違いなく石川のことだろうと思った。
「あんなチンケな組の若頭だかなんだか知らねえけど、俺らんとこの役職につこうだなんて十年は早ええわ」
「だな」
 そう言いながら二人は出て行った。足音が遠のいて行く。俺はその場を動けなかった。
 どういうことだ? 今のは恐らく〈鳴門組〉の奴らだろう。一緒になるって話し合いをしたんじゃなかったのか? 本部は一緒になれって言ったんだよな? それを飲んだのはテメエらだよな?
 急に吐き気が襲ってきた。俺は慌てて便座に顔を突っ込んだ。出てきたのは胃液だけだった。
 一体誰が石川を殺ったんだ? いや、「殺れ」と言ったんだ?
 まさかと思いながら頭がガンガンと痛んだ。

 告別式は簡素なものだった。できればさっさと終わらせてしまいたいんだろう。人が訪れてはさっさと帰ってしまう。それはそうだ。単に義理で来ているんだろうから。
 そんな中に〈鳴門組〉の組長と若頭が訪れた。二人はすぐに分かった。手伝いに来ていた〈鳴門組〉の緊張感が半端なかったからだ。二人は焼香を済ますと親父と俺の前にやってきた。二人は俺のほうなんか見ちゃいなかった。
 組長は細身の五十代くらいの男だった。白髪混じりの髪を撫でつけ、細い縁の眼鏡を掛けて神経質そうに見えた。隣の若頭は組長とは正反対の大柄で筋肉質でいかにもな身体だった。髪は少し長めでところどころ金色のメッシュが入っていて、耳に幾つかピアスをしていた。三十代前半といったところだろうか。黒いネクタイはぶら下がるようにだらしなく結ばれていた。とりあえずネクタイくらいちゃんと締めろ。
「この度は」組長はありきたりな言葉を吐いた。まるで気持ちなんか入っちゃいなかった。親父は軽く頭を下げた。それは仕方ない。頭を下げるのは礼儀ってもんだ。
「残された者達はしっかり面倒みるんで安心してくださいよ」そう言って親父の背を叩いた。親父は「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。「いやいや頭を上げてくださいよ」なんて組長は言ったけど。親父が頭を下げてる時に、若頭が口角を上げて組長と目配せしたのを俺は見逃さなかった。

 火葬場に移った時には俺たち〈紅玉組〉の面子しか残っていなかった。手伝いに来ていた〈鳴門組〉の連中には待たせるのは申し訳ないと春日さんが言って帰ってもらったらしい。確かに奴らに骨を拾わせるのは嫌だ。火葬場の人は「健康な男性ですから、少し時間がかかるかもしれません」と事前に言っていた。炉の扉が閉まる時、井上さんは泣いていた。春日さんだって目尻を拭っていたから泣いていたのかもしれない。若者組は出棺の時からベソベソ泣いていたからもう目が真っ赤だった。泣いてないのは親父と俺だけだった。
 終わるまで部屋で待つように言われたが、俺は外の喫煙所にいた。そこからなら煙突から白い煙が昇っていくのがよく見えた。
「なんで煙草も吸わねえのにここにいるんだよ?」
 井上さんと春日さんがやって来た。それ以上は何も言わなかった。俺たち三人はしばらく黙ってその煙を眺めていた。
「──井上さん。石川はやっぱり女にちょっかいかけて殺されたんですかね?」俺はポツリとそう言った。
「あくまで噂だ、噂!」そう否定した井上さんは凄い勢いで春日さんにどつかれた。
「余計なこと言ってンじゃねえぞ!」
「いや、だから」
「若頭はヤクの取引きの現場にたまたま遭遇して売人のブラジル人に銃で撃たれた。そう言ったろ?」春日さんは俺を睨みつけながら同じことを繰り返した。そんなことは分かってる。
「──春日さん。俺は表向きの理由なんか聞いちゃいないんです。真実を知りたいだけなんですよ」
 自分でも驚くほど冷えた声が出た。春日さんも井上さんもその威圧感に圧されてグッと黙り込んだ。
「俺は問題なんか起こすつもりはありません。けどそんな嘘っぱちな理由で納得しろとかあり得ないでしょ。何より石川に失礼だ。正当な理由で送り出してやりたいだけなんです」
 不思議と淡々とした言葉が口から飛び出す。俺は自分に問いかけてるのかもしれなかった。
「〈極翠会〉の梨田の情婦にちょっかいかけてってのは〈鳴門組〉の奴らが言ってただけだ」春日さんは慌てたように否定した。
「でも本部でその話が出なかったわけじゃないですよね? だからこそブラジル人の売人をでっち上げたんでしょう?」
 俺は横目で春日さんを見た。春日さんは困ったように目を逸らした。
「〈極翠会〉と事を構えたくなかったからでっち上げた。そしてそれを警察も納得した。そういうことなんでしょう?」
 俺がそう言うと春日さんは思いきり煙草を灰皿に押し付けた。
「ああ、そうだ。けど若頭が梨田の情婦にどうこうって話は〈鳴門組〉の組長から出た話だ。俺だって若頭とずっと一緒にいたわけじゃねえから、そう言われたらそうかって答えるしかねえだろ! テメエのほうがよっぽど若頭と一緒にいたんだから知ってンじゃねえか!」
 そうか。春日さんも井上さんも前の若頭を慕っていた。石川とはどこか他人行儀なところがあった。そこを〈鳴門組〉に利用されたんだろう。
「すいません」俺は二人に頭を下げた。そうだ、俺が一番石川のそばに居たんだ。俺が石川を信じてやれなくてどうするんだ。
 嘘の理由のまま見送ることなんかしない。絶対に本当の理由を暴いてやる。俺は立ち昇る煙を見ながらそう心に誓った。

 石川のお骨はとりあえず親父の家で保管されることとなった。俺は若者組にお骨を託すと、その足であの店に向かった。
 受付のいつもの男性は俺の顔を見るなり「この度はご愁傷様です。心よりお悔やみ申し上げます」と深々と頭を下げた。俺も頭を下げた。
「──麗華さんですね?」男性はそう言って内線ではなくスマホで電話を始めた。
 麗華さんは今日はお休みで、もし俺が店にやって来たら電話をくれるように伝えていたという。二十分ほどかかるから先に部屋で待っているように言われた。
 麗華さんはいつもの衣装ではなく、黒いワンピースで訪れた。本当に自宅からすぐに来てくれたんだろう。麗華さんもお悔やみの言葉を述べてくれた。そして向かいのソファに座った。
「──お休みのところごめん」
 俺がそう言うと麗華さんはゆるく首を振った。
「石川さんが亡くなったのはニュースで見て知ってたから。もしかして告別式終わったら店に来るかなって思ってお休みにしてた」
「それは悪かった」そう言うと麗華さんはまた首を振った。
「私達がお葬式に行くわけにはいかなかったから」麗華さんは目を伏せるとそうポツリと言った。
「きっと組の人がたくさん来るんだろうなって。だから遠慮したの。石川さんが贔屓にしてた子なんかは行きたいってゴネて大変だったけどね」
「そうかも。組関係の人しか来てなかったから。贔屓にしてた子なんていたんだ?」
「いたわよ。それこそこの辺の店じゃ石川さんは有名で、各店に贔屓の子が一人はいたけどね。石川さんはMってわけじゃなかったから私は直接はプレイしたことなかったけど。ウチにもいたわよ、Mコースの可愛い子。石川さんの好みは分かりやすくてね、見た目の可愛い巨乳の子。風俗案内所の人なんて可愛い巨乳の子が入店してきたらまず石川さんに連絡してたくらいだから」麗華さんは思い出したように薄く笑った。
「知らなかったな。そんな話ってあんまりしなかったから」
「碧に話しても同意して貰えそうもなかったからじゃない? 可愛いとか巨乳とか興味ないでしょ?」
 それはまあ。それに俺はリタ・ヘイワースばりに美人な麗華さんを見てるだけで十分だ。
「そういえば俺が麗華さんがリタ・ヘイワースに似てるって言った時に、『そっちかあ』って言ってた。そっちってどっちかと思ったけど」
「石川さんはアイドルとかそっち系が好みだったから」
 そっか。もっと石川のことを知っておけばよかったな。
 麗華さんは立ち上がると奥に行って瓶とグラスを持って戻って来た。
「本当は日本酒のほうがいいんでしょうけど。石川さんはイタリアのシチリアワインが好きだったの。特にこの〈ネロ ダヴォラ リゼルヴァ〉。オーガニックワインなのよ」
「オーガニックとか石川らしいや」
 麗華さんはそう言って器用に封を開けると、ワイングラスに注いだ。
「献杯」そう言ってグラスを掲げた。ワインは美しいガーネット色でかなり濃厚な味わいだった。確かに石川に似合いそうなワインだなと思う。
 俺たちはただ黙ってワインを飲んだ。

「──それでさ、お願いがあるんだけど」俺はワイングラスを置いた。麗華さんはふと顔を上げた。
「今日もお願いしたいんだ」
 そう言うと麗華さんは少し考えてから首を振った。
「やめておきなさい。こんな時にそんなことするのは勧めない」
 俺は麗華さんの言葉を無視して上着を脱ぎ始めた。麗華さんが眉を顰めているのは見えていたけれど無視した。上を全部脱ぐとさっさと手首に拘束具を嵌めた。
「まさかワンピースだから出来ないってことはないよね?」
「それで煽ってるつもり?」
「──お願いだ。頼むよ」
 麗華さんは大きな溜め息とともに立ち上がった。壁にかかっている鞭を手に取った。ピシリと音を立てる。そして俺の手を取ってもう片方の拘束具を嵌めた。
「今日は俺が止めるまでやめないで欲しいんだ」
 そう言うと麗華さんは片眉を吊り上げた。
「私が手を抜いて止めるとでも?」
「そうじゃない。けどどんなに苦しがってもやめないで。やめて欲しい時は必ず言うから」
 そう懇願する俺を麗華さんは無視した。
「ここでは私がルールを決めるの。碧じゃないわ。でも願いを聞いてあげるのも必要だもの。いいわ」麗華さんはそう言ってまた手の中で鞭を鳴らした。そしてすぐにその鞭は振り下ろされた。
 すぐに背中は熱を帯びた。食べてないし眠ってもいない。しかも酒を飲んでしまった。いつもより鞭は身体に堪えた。けれどどんどん頭はクリアになっていく。
 一体誰が石川を殺したんだ? 十分に怪しいのは〈鳴門組〉の奴らだ。けれどその理由が分からない。それは〈鳴門組〉を問い詰めたところで絶対に吐かないだろう。どうすればいい?
 鞭は止まらなかった。そろそろきつくなってくる。けどこんなところでやめちゃ駄目だ。俺は絶対に挫けないって誓ったんだ。麗華さんは「そろそろ血が滲むわよ」と小さな声で呟いた。そんなこと知るか。
 真実は誰からも語られない。なら真実じゃないことを潰していけばいい。そう。〈極翠会〉の梨田だ。梨田に聞けばいい。殺したかどうかなんて聞いたって答えないだろう。だが本当に石川が梨田の情婦にちょっかいかけていたかどうかさえ分かれば答えは自ずと出る。〈極翠会〉は大きなところらしいから、確かに石川がそんなことをしたなら消されて当然だろう。
 けれどそんな事実がなかったとしたら? 話はまるで違う。〈極翠会〉は全く関係ないってことになる。探るか? だが俺には〈極翠会〉に知り合いはいない。ならどうする? 決まってる、そんなの正面突破だ。殺られるかもしれない。けど今さらそんなことはどうでもいい。石川の汚名を返上できるなら刺し違えてやる──。
 急に鞭が止んだ。俺は顔を上げた。麗華さんが俺の正面に立った。
「馬鹿ね。こんなところで泣くなんて。顔ぐちゃぐちゃじゃない」
 そう言って手のひらで俺の顔を拭った。
「どうせ泣けなかったんでしょ? ここなら泣いたってみっともなくなんてないわよ。ふふ、鼻水出てる」
 そう言って綺麗な指で俺の鼻を擦った。すると目からボタボタと涙が溢れた。
「背中も血が滲んでるし、唇も切れてる。そこまでしないと泣けないなんて難儀な人ねえ」そう言って麗華さんは俺の拘束具を外し、バスタオルを放って寄越した。
「私の腕の中で泣く?」麗華さんはそう言って腕を広げた。
「……やだ」
「頑固ねえ、可愛くないわよ。せっかくのご褒美なのに」
 ご褒美なんて貰う資格はまだ俺にはない。それに麗華さんの腕の中の気持ち良さを知ったら決心が揺らぐ。俺はバスタオルでゴシゴシと顔を擦った。
「鞭は俺にとって坊主に背中を叩かれるのと一緒だ。叩かれるとスッキリするし、考えが纏まる」
「警策と一緒にしないで」
 そう言って麗華さんは自分からそばにやって来て、俺を腕の中に抱きしめた。
「意地っ張りの子豚ちゃんにはこうしてあげないとね」
 ……いや。いい匂いがして死にそう。あったかいしふかふかする。クソ。仕方なく俺は麗華さんに身体を預けた。

「──梨田さん? ええ、知ってるけど。いきなりどうしたの?」
「いや、葬式でいろんな組の人が来てて、たまたま話に出たから。その人も風俗好きなのか? いてて」
 俺は消毒液をぶっかけられた背中を庇いつつワイシャツに腕を通した。擦れるだけで痛い。
「だからまだ着るの早いって言ってるじゃないの。梨田さんは風俗はほとんど利用しないわよ。キャバクラ好きらしいから」
 なるほど。それでも麗華さんが知ってるってことはよほど顔が広いんだろう。
「どんな人? そんなに目立つ人なのか?」
「まあ、目立つといえば目立つわね。いつもイタリアンスーツにソフト帽だから」
「え? 年寄り?」
「まさか。四十歳くらいじゃないかしら。イタリア好きで店までマセラティで乗りつけるのは有名ね」
「ま、ませら?」
「マセラティ。車のメーカーの名前」
 それは目立ちそうだ。しかし嫌味な感じしかしないのは何故だろう。
「梨田さんは目立つから。だから名前が出てきたのかも」
 そうか。俺はなるほどといった顔を作った。石川はよく飲みに行くと言っていたし、どこかで出会っててもおかしくはない。けれど敵対関係といえど相手は年上の格上。石川がそんな人の情婦に興味を示すだろうか?
「碧?」
「あ、ううん。っていうかワイシャツが触れるだけで痛い」俺はそう答えて曖昧に笑った。

 **

 梨田はすぐに見つけることが出来た。関内で有名なキャバクラを幾つか見に行ったら、シルバーのデカい車を見つけた。すぐにネットで車種を調べたらマセラティの車だった。しばらく見ていたら、スーツにソフト帽のイタリアのマフィアみたいな男が両脇にダークスーツのデカい男を従えて車から降りてきた。正直俺たちの年齢からしたらおっさんだ。だが上背もあるし身体も締まっている。イケてるおっさんだとは思うしカネも持ってそうだ。しかもヤクザとしての地位もある。その情婦を石川が執着したとは思えない。もしかして情婦のほうが惚れたのか? それで撃たれたとしたらとばっちりとしか思えない。
 梨田はどうやら月水金とそのキャバクラにやって来るようだ。燃えるゴミの日か。とりあえず金曜日に行くのは止めることにした。きっと客も多いだろうから、梨田を見つけるのに苦労しそうだ。

 俺は月曜日にその店に行くことにした。月曜なら客もそんなに多くないだろうし、梨田はすぐに見つけられるだろう。
 店が見えるところで隠れて梨田を待つ。梨田はいつも早い時間にやって来る。そろそろかと言う頃、梨田はいつものようにマセラティで店の前にやって来た。今日は明るいグレーのスーツを着ていた。
 梨田が店に入って三十分ほどしてから俺も店に入って行った。すぐに張り付いた笑顔の店員がやって来た。俺は待ち合わせだと言って店内に入って行った。後ろで何か言っていたが無視した。梨田はすぐに見つかった。予想していた最奥ではなく、出入り口にそう遠くない席に座っていた。梨田は座って両脇に女性を侍らせていたが、デカい男達は離れてソファの端に座っている。俺はその席まで真っ直ぐに向かった。
「──梨田さんですか?」俺が立ち止まってそう声をかけると、デカい男達の腰が浮いた。俺は今日もいつものワイシャツにスラックスにマウンテンパーカーだ。梨田は俺を見て首を傾げた。
「誰だ? テメエは?」
「〈紅玉組〉の木崎です」
「〈紅玉組〉? 林檎の品種か?」そう半笑いで言った。大丈夫だ、俺もそう思ったからな。
「梨田さんの情婦に石川がちょっかいかけたって本当の話ですか?」
「はあ!?」
 上機嫌だった梨田は急に眉間に皺を寄せた。デカい男が立ち上がり俺の腕を掴んだ。「まあ待て」と梨田は止めた。そして隣に座ってる女性の顔を見た。
「テメエ、浮気してンのか?」
 女性は首がちぎれんばかりに振った。いま聞いたってことはこの女性が梨田の情婦なのか? 俺は女性をマジマジと見つめた。胸元の開いたドレスを着ていた。スレンダーでスタイルは抜群なんだろうけど正直胸は大きくはない。顔も綺麗ではあるんだろうけど、可愛いとは違う気がした。それにアイドルになるにはとうが立ちすぎていた。
「すいませんでした!」俺は深々と頭を下げた。そしてすぐに立ち去ろうとした。もう用はない。踵を返そうとするとデカい男に腕を掴まれた。梨田は男に人差し指をちょいちょいと曲げた。こちらに来いということだろう。俺は引き摺られるように梨田の前に連れて行かれた。
「なあ木崎さんよお」梨田は口角を上げながら俺に話しかけた。その様は悪そうな男そのもので一瞬ゾッとした。
「なんのことかは知らねえけど、謝り方ってモンがあるんじゃねえの?」
 俺は後ろから膝裏を蹴られた。立っていられなくて膝をついた。なるほど。土下座しろってことか。俺は膝をつき直し、両手を地べたにくっつけた。
「申し訳ございませんでした」そう言って頭を下げた。すぐに頭を押さえつけられた。どうやら梨田の靴が俺の頭に乗っているらしい。
「俺の情婦が浮気してるってすげえ因縁つけてきやがったもんだ」そう言って頭の上の足に力を入れた。俺の額はもうすでに地べたについている。踏みつけるように力を入れる度にゴツゴツと音がした。
「なんのためにそんなことしたよ?」
 俺は踏みつけられたままそれには答えず、ただ謝罪の言葉を口にした。関係ないなら説明するだけ時間の無駄だ。
 そんな俺を見て梨田は苛ついたようだった。
「おまえだって傷ついたよなあ。悪かったなあ、疑っちまって」
 首元に冷たい感触がした。どうやら水でもかけられているようだった。いや、酒だった。アルコールの匂いが充満する。俺はその匂いにむせた。
「どうオトシマエつける気だ? あ?」
 オトシマエ? そんなこと考えちゃいなかった。指でもよこせと言われるんだろうか? 指と角膜はちょっと困る。腎臓くらいで納得してもらえないだろうか。
「──碧っ!」
 聞き覚えのある声がした。梨田の足の力が一瞬ゆるんだ。俺は振り返った。麗華さんだった。
「麗華じゃねえか」梨田は少し驚いたようだった。
「知り合いか?」
「ええ。ちょっと」
「ちょっと? そんなに慌ててか?」
「お客さんのことはいろいろ話せないわ」
 なるほど。梨田は小さく呟いた。
「コイツはタダでは返せねえ。それなりの謝罪をして貰わねえとな」梨田は愉快そうに言った。麗華さんは少しの間動かなかったけれど、すぐに膝をついた。そして地べたに両手をついた。
「これでいい?」麗華さんがそう言うと梨田はクツクツと笑いながら頷いた。それを合図に麗華さんは地べたに額をつけた。そこまですると梨田は大きな声で笑った。
「あの麗華女王様が土下座かよ! こりゃいい!」
 デカい男達も一緒になって笑っていた。すると一人が調子にのってスマホを取り出した。カシャと音が鳴った。写真を撮ったんだろう。それは駄目だ!
 俺が動こうとするとすぐに梨田の足で頭を押さえつけられた。それは違う! 麗華さんは関係ないんだ。
 梨田はその男を人差し指で呼んだ。男は上機嫌で梨田のもとに寄って行った。梨田はそのスマホを見せるように言った。そして男がスマホを差し出すと、いきなりスマホをテーブルに投げつけた。そして酒をぶちまけた。俺は呆気に取られながらその様を見ていた。
「誰が撮っていいって言った!」梨田は怒鳴った。
 そしてアイスペールをその男に投げつけた。男は小さくなって「すんません」と繰り返した。
「クソが! 酒が不味くなったわ!」そう言って俺の顔を蹴り上げた。勢いが強くて俺はそのまま尻餅をついた。口の中に鉄の味が広がった。
「麗華、もういい。このアホを連れて帰れ」
 麗華さんは俺の腕を取って無理やり立たせた。
「──ありがとう」
 梨田は片手でさっさと帰れとばかりに手を払った。麗華さんは俺を引き摺って、カウンターに向かった。そこには先ほどとは違う落ち着いた雰囲気の男性が立っていた。
「ごめんなさい。あそこの席にシャンパンを入れて。それから今日の会計を」
 男性は頷くと奥へ入って行った。そして若い店員が梨田の席にシャンパンを持って行った。そして目の前に小さな紙が置かれた。四十万と書かれていた。麗華さんは鞄の封筒の中から現金を出して銀色のトレーに置いた。
 梨田のほうを見ると梨田はこちらに目を向けずに片手だけひらひらと振っていた。俺は麗華さんに再び引き摺られるようにして店を出た。

 麗華さんは立ち止まらずに俺の腕を掴んだまま歩き続けた。声をかけようと思ったけど、もの凄く怖い顔をしてたから黙るしかなかった。
 麗華さんは大通りに出るとタクシーを止めた。そして俺を突き飛ばすように乗せると「本牧の山手警察署の交差点まで」と告げた。俺が上目遣いで麗華さんを眺めたが、麗華さんは俺を一瞥もしないでずっと前を向いていた。タクシーが到着するまでその表情は変わることはなかった。
 タクシーを降りると麗華さんは「少し歩くわよ」とだけ言った。俺は黙って麗華さんについて行くしかなかった。
 本牧は思ったよりマンションが多く建っていた。その中でもそんなに大きくはないけれどお洒落な造りのマンションに入って行った。エレベーターの最上階のボタンを押す。どこに連れて行かれるんだろうか。
 エレベーターを降りると扉は両端に二つしかなかった。麗華さんは左の扉の鍵を開けた。
「入りなさい」
 そう促されて俺は恐る恐る中へ入った。「お邪魔します」そう声に出した。部屋に誰かいるかもしれない。部屋の中は暗かった。ふいに電気がついた。
 麗華さんは俺にソファに座るように言って、部屋の奥から何か箱のようなものを持って俺の隣に座った。目の前のテーブルに置かれたのはクリアケースで中には何か薬のようなパッケージが見えた。麗華さんは無言で箱を開け、なにやらスプレーみたいなものを手に取り俺の顔にいきなり吹き付けた。
「うわっ!」
「避けないで。おでこ血が出てるんだから!」
 そしてティッシュを何枚か取って俺に差し出した。
「鼻血も出てるし!」
 鼻の下に触れてみると確かに血は出ていたようだ。けどもうほとんど乾いている。
「──このバカっ!」
「ごめん」
 謝るしかないじゃないか。怒鳴られすぎて勝手に来たくせにとか言いたくもなったけどそれは違うなって。俺のせいで麗華さんを関係ないのに土下座させてしまったんだ。それは本当に済まなかったと思う。俺は土下座なんて全然気にしないけど麗華さんは女王様って面子もある。
「ごめん。悪かった」
「何に対して謝ってるの?」麗華さんはすかさず聞いてきた。
「何って……関係ない麗華さんを土下座させたこと?」
「そんなことで謝ってるの? 安い謝罪ね」
 麗華さんはそう言うと立ち上がって行ってしまった。女王様の土下座って安いのか? そうは思えないのだが。お金を払わせたこと? いや……それはない。俺が返せばいいことだ。そういえば梨田は「麗華」と呼んでいた。もしかして知り合いなのか? もしかして昔の恋人だったりするんだろうか。昔の恋人に俺が失礼なことを言ったから? それについては俺はよく分からないのだが、そういうものなのかもしれない。
「麗華さんっ!」俺が顔を上げると麗華さんは両手にカップを持って目の前に立っていた。少し驚いた顔をしていた。
「なに? はい、コーヒー」そう言って俺の前にカップを置いた。
「あのさ、もしかして梨田と恋人同士だったりした?」
「はあ!?」麗華さんの綺麗な顔が思いっきり歪んだ。
「なんでそうなるのよ?」
「だって怒ってるみたいだったから。それに梨田は麗華さんのこと知ってたし」
「鈍いくせに変なところにはよく気がつくわねえ」麗華さんはコーヒーを手に溜め息と共に湯気を吹いた。
「私が怒ってるのは一人で勝手に行ったこと。こないだ来た時に梨田さんの話してたでしょ? それが気になってね。だからあの店の子になんかあったら連絡くれって言ってたの」
 麗華さんだって十分変なところに気がつくじゃないか。
「だから聞きたいことがあれば言ってくれればよかったのに。そうしたら今回みたいなおおごとにならなくて済んだのよ?」
「それは……」俺は言い淀んだ。まだはっきりしたことは分からない。それにこれは俺が勝手に思ったことで麗華さんを巻き込んでいいことだとは思えなかった。
「──石川さんがなんで死んだか気になってる?」
 俺は答えられなかった。警察はブラジル人の売人だって発表してるし、それが違うという証拠もない。
「碧もヤクザだもんね。忘れそうになるけど」そう言って麗華さんは薄く笑った。
「石川さんが死んじゃったこともショックではあるけど、私は碧が死んじゃうのも嫌なの。だからもし協力できることがあるなら協力したいのよ。今日のことだって私に聞いてくれれば調べてあげたのに。わざわざあんな危ない橋を渡ることもなかったのよ?」
 そう言って麗華さんは俺をじっと見つめた。俺はなんだか落ち着かなくてコーヒーを手に取った。
「──梨田さんのことはよく知らないけど、それとなく聞くことはできたから」
 それってどういうことなんだろうか? 梨田のことはよく知らないのに誰に聞くんだろう?
「常連さんにね、梨田さんの上の人がいるの」
「上?」俺は組織図を頭の中で描く。梨田は〈極翠会〉では若頭だ。その上って……
「もしかして〈極翠会〉のトップ?」
 俺がそう聞くと麗華さんは頷いた。
「碧は梨田さんに石川さんのことを聞いたんでしょ?」俺は頷いた。
「それくらいなら真中《まなか》さんにも聞けたと思うわよ」
「真中さん?」
「〈極翠会〉の組長さん。真中さんから石川さんの話は聞いたことはないわ。それに梨田さんが真中さんに何も言わずに勝手に敵対する組の人間を殺すとか思えないけど?」
「え!?」俺は危うくコーヒーを吹き出すところだった。
「どうして……」
「どうしてもなにも。碧の行動見てたらそれしか考えられないじゃない?」
 どうやら麗華さんは俺が思っているよりも勘のいい人らしい。いや、よく観察してるというべきか。さすがナンバーワン女王様というべきか。
「──正直まだ分からないんだ。けど警察が発表してるたまたま取引き現場に遭遇して撃たれたっていうのはあり得ないと俺は思ってる。上の人達は『梨田の情婦にちょっかいをかけたからだ』って言ってたけど……それも違うと思った」
「碧はそれも違うと思ってたのね?」
「うん、違うとは思ってた。けど違うと思ったのから潰していくしか方法はなかったから」
「だったら」麗華さんはソファに座り直して、俺のほうに身体を向けた。
「余計に相談して欲しかった! 真相に辿り着く前に碧になにかあったら元も子もないでしょう?」
「──ごめん」
 麗華さんの言うとおりだ。真相を知る前に俺が死んじまったら石川の汚名は晴らせない。

 俺はそのあと麗華さんからゲンコツを喰らい、風呂にぶち込まれた。どうやらここは麗華さんの自宅らしい。服は濡れていたしアルコール臭かったから風呂はありがたかったけど、こんないい匂いのする風呂に入るのは初めてで正直落ち着かない。
 風呂からあがったらスウェットの上下が用意されていた。それは俺にちょうどよかった。いくら麗華さんが背が高いからといって俺のサイズを着ることはないだろう。
 風呂からあがってリビングに向かった。麗華さんはキッチンでなにやら忙しそうにしていた。俺は風呂をいただいた礼を言った。
「ねえ、麗華さん。これって麗華さんの彼氏のヤツ?」俺はスウェットを指した。麗華さんは一瞥するとすぐに作業に戻っていった。
「彼氏なんかいないわよ」
「じゃあ元彼のか」
 ダンッと大きな音がした。しまった、麗華さんは包丁を持っていたのだ。包丁はまな板に突き刺さっていた。
「……デリカシーがないわね。黙ってあっちに行ってて!」
 怒られてしまった。やはり元彼というワードはあまりよいものではないらしい。俺は仕方なくリビングのソファに座った。
 ぼんやりと部屋を見回す。ここのリビングだけでも結構広い。キッチンだって相当広い。それが仕切りなくつながってるから二十畳以上あるんじゃないだろうか? 風呂も広かったし、奥に部屋があるようだった。広いし、本牧だし、最上階だし。家賃はいったい幾らくらいなんだろうな。
 そうこうしてると麗華さんは食事を持ってやって来た。
「お腹空いてるでしょ?」確かに。緊張してて今日はほとんど食べていなかった。
 テーブルに並べられたのは豆のスープにメキシカンライス。メキシカンライスにはアボカドとゆで卵とブロッコリーが添えられていた。なんかお洒落な食べ物だな。しかも美味い。あとで作り方を教えてもらおう。
「あのさ。真中さんって麗華さんの常連さんなんだろ?」
「ええ、まあ」
「真中さんはどういう鳴き真似するんだ?」
「は?」
「豚の。俺がoink oinkって鳴いたら麗華さん驚いてたじゃん? 正解は何なのかと思って」
 麗華さんは吹き出しそうになって咽せた。ケホケホ咳き込んでいる。
「他人のプレイの話は基本的にしないんだけど、真中さんの名誉のために言っておくわ。真中さんはプレイしないから。基本的に見てるだけ」
 そうなんだ。見てるだけって何が楽しいのか分からないけど、そういう人もいるんだな。
「大半が『ブーブー』じゃないかしら?」
「それは違うな」
「なんでそんなにドヤ顔なのよ!?」

 麗華さんは食事のあと、またコーヒーを淹れてくれた。ここのコーヒーは美味しい。今度はブラックじゃなくてミルクを入れてあった。麗華さんはソファの俺の隣に座り詰め寄ってきた。そして石川のことを詳しく聞かせてと迫ってきた。
「うーん。まだ分からないんだって」
「でも梨田さんの情婦の可能性のほかにも何か他にあったってことでしょう?」
「それはそうだけど……」何か話して麗華さんを巻き込むのは嫌だ。今日のことだっていい気持ちはしなかった。
「碧はさ、自分でなんでもやろうとするでしょう? それは大事なことだとは思うけど、他人に頼るっていうか任せることも必要だと思うのよ」
「でも……麗華さんを巻き込むのは嫌なんだ」
「それに碧は暴走するところがあるから誰かアドバイスする人が必要だと思うのよ?」
 うん。麗華さんは俺の話を聞くつもりはないらしいな。
 俺は仕方なく今わかってることだけを話した。本当は〈鳴門組〉のことは話すべきじゃなかったのかもしれない。けれど〈極翠会〉のことだって知ってたんだから、もしかしたら〈鳴門組〉のことも知ってるかもしれない。それに石川のことは俺の知らない部分も知っていた。もっと他に何かあるかもしれない。
「〈鳴門組〉か。その名前なら聞いたことはあるわ。その前にちょっと連絡させて。彼女ならもしかしたら〈鳴門組〉と石川さんのことを知ってるかも」
「彼女?」
「私に連絡くれた人。あの店に来る前から石川さんを知ってたはずだから」
「もしかして働いてる女の人? 麗華さんはそういうお店の人とも知り合いなんだ?」
「そうでもないわよ、彼女は特別。彼女は私のお客さんなの」
 うん? 彼女って言ったよな? 俺は首を傾げた。
「別に女性がSMクラブに来ちゃダメってことはないわよ。まあ女王様によって違うけどね。私は女性も平気」
「へえ。いろいろあるんだな」
 まあね。麗華さんはそう言ってスマホを器用に動かした。すぐにメッセージがきたようだ。詳しくはあとから連絡してくれるらしい。
「──真中さんから聞いたのはあまりいい話ではないわね。そもそも敵対する同士ではあるんだろうけど、それにしても仲は悪かったわね。一度取引きを邪魔されたとかで真中さんがめちゃくちゃ機嫌が悪かった時があったわ。『〈鳴門組〉の奴らは筋を通さねえ』ってよく言ってたもの」
 なるほど。だんだん読めてきたぞ。石川を殺して〈極翠会〉のせいにして、それで俺らが報復しても奴らは得をする。俺らが報復を止められて本部と警察が犯人をでっち上げても長い目で見れば得をする。〈極翠会〉の評判が悪くなるだけだからな。どっちにしたって〈鳴門組〉は損はしない。しかも石川を失った吹けば飛ぶような組と一緒になってやるわけだから本部からの覚えもいい。どこをとっても〈鳴門組〉はいいことしかないのだ。俺はあの組長と若頭を思い出す。アイツらならやるだろう。葬式に来てあんな嫌な顔で嗤うなんて碌な奴らじゃない。
 そうこう考えを巡らせているうちに例の彼女から連絡が来た。
『前の店はよく〈鳴門組〉が利用してたんですよ』彼女はうんざりしたように言った。
『威張ってるわりにケチだし、みんな嫌がってた。石川さんは時々来てくれてたんだけど、面白い人だった。麗華さんの店を紹介してくれたのも石川さんだし。女性もSMクラブって使えるよって』
 意外な繋がりだった。彼女はもともとM気質はあるらしいのだが、仕事のせいかプライベートでは男性とはプレイしたくないらしい。世の中いろんな人がいるものだ。俺は今日だけでずいぶん色んなことを知った気がする。
『最初は別々に来てたんだけど、いつの間にか〈鳴門組〉の人達と一緒に来るようになって。なんだか嫌々だったみたいだったけど。両脇を挟まれて帰れないようにされてたように見えたし』
 石川はもしかして合併することを望んでなかったのか?
『それにこの店に移ったほうがいいよって言ってくれたのも石川さんだから』
「──ねえ、君ってもしかして若くてアイドルみたいな顔してて巨乳の子?」
『はい? えっとまあ、アイドルグループにいそうってはよく言われますね。巨乳かどうかは……小さくはないと思いますけど』
 決まりだ。梨田はシロだ。もし喧嘩を売ってたとしたらわざわざ梨田が常連って知ってる店に、石川は自分の気に入った子を勧めるわけはない。むしろ〈鳴門組〉には気をつけろって意味で店を移れって言ったに違いない。
 〈鳴門組〉は何を目当てで石川に近づいたんだ? 考えられるのは石川のシノギだ。最初からそれが目的で近づいてきた。それに石川も気づいて何かトラブルがあったのかもしれない。同じ組織の中にいるのに。俺は奥歯を噛み締めた。